藤原清河の遣唐使の和歌  

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藤原清河の遣唐使の和歌

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藤原清河(ふじわらのきよかわ)は、奈良時代に遣唐使として唐に渡った人物です。

藤原清河の万葉集の和歌を現代語訳、解説と共にお伝えします。

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藤原清河は奈良時代の遣唐使

藤原清河は奈良時代の公卿で、叔母は光明皇后という由緒ある家柄の人物です。

清河は750年に遣唐使に任ぜられて2年後に唐に渡りました。

阿倍仲麻呂も一緒

他に阿倍仲麻呂も一緒であったことがわかっていますが、その両方ともが日本に帰ることができず、唐で生涯を終えました。

※阿倍仲麻呂の歌は下の記事に

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 阿部仲麻呂

帰国ができなかった遣唐使

当時は中国大陸に船で行くのも命がけであり、簡単に行き来ができなかったためです。

遣唐使に任命されてから、実際に出発したのは2年後のことでした。

その際、出発を祝う餞別の会が催され、その席で藤原清河が詠んだのが次の歌です。

春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰り来るまで

読み:かすがのに いつくみもろの うめのはな さかえてありまて かえりくるまで

作者

作者:藤原清河

出典

出典:万葉集19 4241

現代語訳と意味

この春日の地に咲いて社に祀られている梅の花よ、咲き栄えて私を待っていておくれ。日本に帰ってくるまで

 

解説

遣唐使に送り出される藤原清河が、叔母の光明皇后から送られた和歌への返歌が上の歌です。

歌の背景

皇后の歌は

大船にま梶しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
(おほふねにまかぢしじぬきこのあこをからくにへやるいはへかみたち)

意味は、

大船に楫をいっぱい取り付けて、このいとし子を唐の国へ遣わします。まもらせたまえ神たちよ

詞書に

春日に神を祭りし日に、藤原太后の作りませる歌一首。即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜へり

とあり、この歌は清河に送られたということがわかります。

神に直接呼びかけるというのは、やはり皇后の地位の高さが感じられます。

※光明皇后の代表作和歌

わが背子と二人見ませば幾許かこの降る雪の嬉しからまし『万葉集』光明皇后

春日とは

春日というのは大和国にあった「かすが」という地名のことです。

現在は、現在の奈良市春日野町付近ということにされています。

春日大社が建てられた地

そこに、春日大社という藤原氏の氏神を祭る神社が768年に建立されていますので、春日の地が藤原氏にゆかりの深いものであったこと、また本格的な神社ではなくても、神社以前の何らかの建造物のようなものがあったかもしれません。

そこに藤原氏の一族が集まって、壮行会のようなものが行われたその席で、清河が披露したのが上の歌です。

歌の内容

清河の歌の内容は、光明皇后への返歌ですが、光明皇后が神に呼びかけているのに対して、清河は「梅の花」に対して待っているようにと呼んでいます。

春日野や三諸の神社は藤原氏ゆかりの地であるので、そこに梅が咲いて栄えるようにというのは、藤原氏の弥栄(いやさか)を祈る意味があります。

遣唐使としての心情は「待て」と「帰り来るまで」に作者のありようが感じられますが、この歌に関してはやはり祝いの席で皇后への返歌という意味が大きいでしょう。

藤原清河の遣唐使としての家族との別れの心情が詠まれているのは、下の歌の方です

天雲の行き帰りなむものゆえに思いそ我がする別れ悲しみ

読み:あまぐもの いきかえりなん ものゆえに おもいそわがする わかれかなしみ

作者と出典

作者:藤原清河

出典:万葉集19-4242

現代語訳と意味

行ってすぐ帰ってくるものであるので、それを見ていると私は別れの悲しみがつのってくる

 

あらたまの年の緒長く我が思える児らに恋ふべき月近付きぬ

読み:あらたまの としのおながく あがおもえる こらにこうべき つきつかづきぬ

作者と出典

作者:藤原清河

出典:万葉集19-4244

現代語訳と意味

長い年月私が思ってきた妻と別れなければならない月が近づいた

 

遣唐使阿部仲麻呂の歌

遣唐使の関連の歌として有名なのは、やはり阿部仲麻呂の歌です。

阿部仲麻呂の遣唐使の和歌

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

読み:あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも

作者と出典

阿部仲麻呂

百人一首7番  古今和歌集 9-406

現代語訳と意味

大空のはるかに振り仰ぐと月が出ている。

あの月は、昔わがふるさとの春日(かすが)にある奈良の三笠の山に出たのと同じ月なのだろうか

この歌でも「春日」の地が懐かしく呼び起こされています。

※解説は
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 阿部仲麻呂

遣唐使への祝いの歌

もう一つ、秀歌として取り上げられるのが下の選別の歌です。

唐国に行き足らはして帰り来むますら健男に御酒奉る

読み:からくにに いきたらはして かえりこん ますらたけおに みきたてまつる

作者と出典

多治比真人鷹主(たぢひのまひとたかぬし)

万葉集 19-4262

現代語訳と意味

唐国に行って退任を十分に果たして帰って来られる 大丈夫(ますらお)のあなたにお酒を捧げます

この歌は『セミナー万葉の歌人と作品』において「力強く堂々たる調べの予祝いの歌」として、万葉集の秀歌に選ばれています。

藤原清河はどうなったのか

唐に渡った藤原清河はその後日本に戻ることはありませんでした。

帰国の際、暴風にあい安南、今のベトナムに漂着したと伝えられています。

そこから再び唐に戻り、唐で一生を終えました。

当時外国に行くというのは、名誉あることであったとはいえ、命がけの任務であったことがわかります。

そう思って読むと、歌の心情がますます伝わってきます。

藤原清河について

(ふじわら の きよかわ、慶雲3年(706年)- 宝亀9年(778年))は奈良時代の貴族。 藤原房前の第四子。 唐名は河清

698~770年 吉備真備(きびのまきび)、阿部仲麻呂と共に唐に渡る。王維や李白と交わり、玄宗皇帝から厚く遇された。753年、仲麻呂と共に帰国を試みるが、難破してベトナム安南に漂着。ふたたび唐に戻り、帰国を果たせず唐で没した。

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