鎌倉や
きょうの日めくり短歌は、与謝野晶子の鎌倉の大仏を詠んだ歌の、現代語訳と表現技法を鑑賞します。
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鎌倉の大仏建立の日
3月23日、春に入る労とする頃に、鎌倉の大仏の建立が始まりました。これは、最初の木製の大仏のことで、暦仁元年(1238年)のことです。
完成はその5年後となりますが、その後大仏は、台風で倒壊、今の青銅製の大仏が、「鎌倉の大仏」として知られるものとなります。
与謝野晶子の大仏の歌
与謝野晶子がこの大仏を見て詠んだのが次の短歌
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
読み:かまくらや みほとけなれど しやかむには びなんにおわす なつこだちかな
作者と出典
与謝野晶子 『恋衣』
現代語訳と意味
ああ鎌倉。その地にいらっしゃる釈迦牟尼の大仏は御仏なのだけれども、まこと美男でいらっしゃる。夏木立の中に。
語句と文法
- 「や」…詠嘆の終助詞
- 御仏…読みは「みほとけ」。仏にさらに「御」をつけたもの。
- なれど…「なり」「ど」(接続助詞)のついたもの。
- 釈迦牟尼…しゃかむには、釈迦のこと。インドの仏教の創始者 シャカ。お釈迦様。
- おはす…尊敬語 「いらっしゃる」
- 夏木立かな…夏の林のこと。
- かな…[終助]《係助詞「か」の文末用法+終助詞「な」から》体言・活用語の連体形に付いて、感動・詠嘆を表す。 …だなあ。
句切れと修辞
- 初句切れと4句切れ (以下に解説)
- 「や」は「鎌倉」、「かな」は「夏木立」をそれぞれ強調する詠嘆
表現技法のポイント
一首は下のような句切れを持って構成される。
鎌倉や/ 御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす/ 夏木立かな
詳しくは、以下に解説。
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鑑賞と解説
与謝野晶子が鎌倉を訪れた際に、大仏を見て詠んだ歌。
表記を「かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな 晶子」として、高徳院の境内には、この歌の鎌倉大仏造立700年を記念する石碑が立っています。
鎌倉の大仏「釈迦牟尼」は誤り
晶子が大仏を「釈迦牟尼」と詠んだことに対して、大仏は釈迦ではなく、大乗仏教の如来の一つ、阿弥陀如来(あみだにょらいであるとの指摘があります。
誤りですが、石碑においては訂正されずそのままとなったようです。
この部分については、川端康成が、『山の音』においても、
「大仏は釈迦じゃないんだよ。実は阿弥陀さんなんだ。まちがひだから、歌も直したが、釈迦牟尼は、で通ってる歌で、いまさら弥陀仏はとか、大仏はとか言ふのでは、調子が悪いし、仏という字が重なる。しかし、かうした歌碑になると、やはりまちがひだな。」
と登場人物に言わせている箇所があります。
鎌倉の大仏の性別は
なお、阿弥陀如来の性別は、「美男」とある通り、便宜上は「男性」で誤りではありません。
ただし、仏像は仏さまを描いたものですので、男女を超越した存在といえます。
ちなみに言うまでもありませんが、生前の釈迦も男性です。
釈迦牟尼の「尼」に「尼さんだから女性」と思う人もいるかもしれませんが、これは原語の Śākya-muniの音写で、日本の漢字をあてたもので、女性を指すものではありませんで、意味は「釈迦族の聖者」との意味となります。
仏を「美男」がポイント
良くも悪くも、この歌の魅力は、何よりも聖者であり仏である仏像を、あたかも俗世の人を見るように「美男」であると言い切った点にあるでしょう。
同じように仏に対して、人に対する敬称と同じ「きみ」という言葉をもって呼びかけた会津八一の歌「あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほえむ」もあります。
短歌の良しあしというよりも、個人的な好悪を含む部分であるでしょう。
与謝野晶子の歌については、「明星」の浪漫性を肯定する評や、仏の畏敬がないなどと両極の批判もあったようです。
ただし、この歌に関しては、当ブログ筆者は、仏教心にポイントがあるのではなく、旅行詠であると考えています。
なので、そもそも仏教的な主題とは関わりがなくてよいのです。
その理由を、短歌の構成から読んでいきましょう。
表現技法の解説
一首は下のような句切れを持って構成されます。
鎌倉や/ 御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす/ 夏木立かな
初句切れ 4句切れ、体言止めはなく、いずれも終止形でぷつぷつと切れています。
言ってみれば、調べのなだらかでない、つぎはぎの下手な歌なのですが、与謝野晶子がわざわざそうしたのは、なぜなのでしょうか。
初句切れの表現技法
「鎌倉や」は初句切れという技法で与謝野晶子は、鎌倉へ旅をして、その地を踏んだ感慨があり、それが「鎌倉」の地名を強調する「鎌倉や」の初句切れとなったと思われます。
鎌倉へ来たことそのものに感慨があるので 旅行者でなければ、使わない表現といえます。
与謝野晶子には他にフランスを訪ねた際の短歌で「ああ阜月(さつき)仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟」というのがありますが、こちらの歌も初句切れの技法を用いています。
この場合の「や」は、「だなあ」と訳されることの多い詠嘆の終助詞ですが、「鎌倉だなあ」と訳すよりは、「ああ鎌倉」「鎌倉に着いたなあ」とでもした方がよさそうです。
この訳を「鎌倉に居る大仏様は」としている人が多いのですが、「ああ鎌倉!」としないと、意味が別物になってしまいます。
初句切れというのは、短歌ではそのくらいインパクトのある技法なのです。
「美男」を用いた理由
「鎌倉や」だけで、もう胸がいっぱいになっている様子なのですが、その感慨に続いて、さらに論点となる「美男」の一種の詠嘆が続きます。
仏に美男は不謹慎めきますが、作者の晶子は、鎌倉に到着し、もう何を見てもうっとりするような、旅の気分を出しているようです。
つまり、この部分は、文語で詠まれていますが、作者が大仏の前に歩み出てそのお顔を見上げた時に、思わず「いやあ、大仏様は美男でいやはりますなあ」というように感じたものを、そのまま歌に表していると思われるのです。
ちなみに与謝野晶子は、大阪出身です。(筆者は関西弁には詳しくありませんので、口語訳は一つの例です)
4句切れの理由
この部分が、「美男でいやはりますなあ」となっているので、「美男におはす」と4句切れとなります。
言い終えたところで歌の切れ目となり、その後の「夏木立かな」は、大仏そのものからはそれており、外景を詠んだものです。
再びここできっちり句切れとなっているのは、「美男でおはす」は、事実を述べたのではなく作者の内面であり、「夏木立かな」は心の中に浮かんだものとは別の実際にそこにある景色です。
作者の視点の移動
そして、同時に、大仏をじっと見つめていた作者の視線が、大仏の顔というピンポイントから大仏をめぐる景色へと視点の移動があることもわかるでしょう。
それより先には、「鎌倉」という広範囲の認識があり、このような目に見るものの強調は、やはり、旅する人ならではのものと言えるでしょう。
一首は、大仏を詠んだ歌というよりは、旅をする作者の感慨を大仏に重ね合わせたものとして味わってみてください。
そうすれば、不謹慎や信心といった論点を離れたところから、この歌を味わうことができるかもしれないと思います。
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