平塚らいてうの今日は「らいてう忌」。平塚らいてうは月刊文芸誌『青鞜』を発行、その冒頭に記されたのが、「元始、女性は太陽であった」との”名言”です。
平塚らいてうの記した、「元始、女性は太陽であった」の意味内容についてお知らせします。
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平塚らいてうはどんな人?
平塚らいてう(読みは「らいちょう」)は1886年(明治19年)生まれ。
日本の思想家、女性解放運動家です。今の言葉でいうなら「フェミニスト」のような思想を持った人というと近いかもしれません。
しかし、それ以上に、明治時代は、まだまだ日本の女性の地位は低く、参政権も与えられていませんでした。
それを「婦人問題」として意識、改革をしようと行動したのが、平塚らいてうです。
一言でいうと、意識のたいへん高い女性であり、また、周りには同じよ宇名志を持った女性たちが集まりました。
平塚らいてうが『青鞜』を刊行
そして、女性たちによって、そのような社会を改善しようと刊行されたのが、雑誌『青鞜(せいとう)』です。
『青鞜』は1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行されました。
青鞜は元々は、文芸誌であったのですが、振り返ってみると「文学史的にはさほどの役割は果たさなかった」との批評もある通り、途中から、女性解放のための本誌となっていきました。
しかし、『青鞜』には多くの著名な歌人や人物が参加、さらに、参加をしなかった人に対しても、これらの女性の活躍は、大きな影響を与えたことに違いありません。
『青鞜』と女性歌人
『青鞜』に参加した筆頭の歌人が与謝野晶子です。
「君死にたまふことなかれ」の詩や、大胆な恋愛描写の「みだれ髪」が代表作です。
青鞜に短歌が掲載された歌人は他にも
他にも青踏の表紙画を描いた画家には、高村光太郎の夫人となる高村智恵子も担当していました。
「智恵子抄」の主人公となる方の結婚前の仕事となります。
平塚らいてうの名言「元始、女性は太陽であった」
平塚らいてうの言葉として有名な「元始、女性は太陽であった」は、この『青鞜』の最も最初の号の巻頭に掲げられた、らいてう自身の文章の中の言葉です。
『青鞜』の最初の部分を見ていきましょう。
「元始、女性は太陽であった」原文冒頭
元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつ て輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。―『平塚らいてう著作集』第一巻より
冊子の最初、まず目に入るのが「元始女性は太陽であ つた。 ――青鞜発刊に際して―― 平塚 らいてう」に続くこの部分です。
この部分の意味と現代語訳をみていきましょう。
「女性は太陽であった」の意味
「元始」というのは、この場合、「元々」の意味にとっていいでしょう。
「大昔から」でもいいですし、「女性及び人類が誕生してから」とも考えられます。
しかし、らいてうの述べているのは、そもそもは「太陽であった」はずの、女性が月になってしまったというものです。
太陽と月の対照
この場合の月とはどういうものかというと、
太陽によって照らされて、受動的に光を放つ存在
といえます。
そして、そのような女性は
主体性を持つことを許されない女性は、心から生きることを楽しめない、「病人」のような存在になり果てている
という意図だと考えられます。
月と言えば、眞子さまがご婚約会見で、婚約者の小室圭さんに「月のような存在」と言われたことが、批判を浴びたことが記憶に新しいです。
批判の内容も、やはり「受動的」である印象が元となったものと思われます。
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太陽の比喩
太陽というのは、自らが輝く主体性を持つ存在のことですが、上の文章の場合の太陽というのは、男性であり、さらに、その時代の社会です。
当時の女性というのは、今では考えられないほど、男性に対する従属的な地位にあるとされていました。
結婚をするまでは一家の長である父や、兄弟、その他の男性に必ず従わなければならず、これは、娘ばかりでなく、妻の立場の女性も同じでした。
また、同じ子どもであっても、男性の兄弟よりは、女性は地位が低いとみられていました。これは社会にあっても同じことだったのです。
女性の行動が嘲りの対象
この文章は次のように続きます。
女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。
ここでいう「女性のなすこと」というのは、『青鞜』の出版のことです。
「女性が出した文芸誌なんて、さぞやおかしなものだろう」と男性が笑う。
しかし、その下の、「嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)もの」とは何でしょうか。
これは、女性に対して威張っていた男性がひそかに持っていた、女性の潜在的な才能の開花に対する、内心の恐れのようなものではなかったでしょうか。
『青鞜』の目的と「天才」の意味
この文章の要旨、そして『青鞜』発刊の目的は、下の箇所を見るとはっきりします。
『青鞜』の目的について、平塚らいてうは、下のように言います。
青鞜社規則の第一条に他日女性の天才を生むを目的とすると云ふ意味のことが書いてある。
私共女性も亦一人残らず潜める天才だ。天才の可能性だ。可能性はやがて実際の事実と変ずるに相違ない。只精神集注の欠乏の為、偉大なる能力をして、いつ までも空しく潜在せしめ、終(つひ)に顕在能力とすることなしに生涯を終るのはあまりに遺憾に堪へない。
この場合の天才というのは、ただ一人の天才のことではありません。
「私共女性も亦一人残らず潜める天才だ」からすると、すべての女性が持って生まれた「天の才」の意味と言えます。
「天才の可能性」の発掘、つまり、女性の才能を開花させようということが、『青鞜』の目的です。
具体的に言えば、その時代は、女性の作品の発表する場が極めて少なかったので、女性の才能を開花させ、それを世に知らしめるべく、『青鞜』はそのような女性の作品の発表のために刊行されたのです。
青鞜社規則の第一条の意味
上記の青鞜社規則の最も最初の「第一条」には下のように記されます。
第一條 本社は女流文學の發達を計リ、各自天賦の特性を發揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす。
この 「本社は女流文學の發達を計リ」は後に変更される部分です。
文学から婦人問題を扱う『青鞜』へ
そして、この序文「元始、女性は太陽であつた」は、進むにしたがって、下のようになります。
元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。
今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く病人のやうな蒼白い顔の月である。
私共は隠されて仕舞つた我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
「太陽=女性の輝き」とは、この序文においては文学的才能を指すものでした。
しかし、『青鞜』は創刊から2年後の1913年(大正2年)10月、最初に記した「青鞜社概則」の冒頭を、「女流文学の発達を計り」から、平塚らいてうの元々の目的でもあった「女子の覚醒を促し」へと変更します。
文芸誌ではなくて、「婦人問題」をテーマとする雑誌に本格的に舵を切り、らいてうは、以後、女性解放運動家として知られるようになります。