紅葉・黄葉の名作短歌・和歌 万葉集、百人一首より  

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紅葉・黄葉の名作短歌・和歌 万葉集、百人一首より

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紅葉の短歌・和歌にはどんなものがあるでしょうか。

万葉集から紅葉を詠んだ秀歌には、柿本人麻呂の歌が有名です。

他に百人一首の紅葉の歌も広く知られています。紅葉に関する有名でよく知られた短歌を集めてみました。

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万葉集の紅葉の短歌

万葉集で「紅葉(もみじ)」という言葉を使ったものは、万葉集の後の方に出てくるものがあります。

妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越えくれば紅葉散りつつ (巻10・2201)

がその歌です。

紅葉の短歌・和歌といっても、万葉集では「紅葉」という言葉は多くは見られません。

万葉集のほとんどの歌は、紅葉をうたっていても、「紅葉」ではなく、「黄葉」と記されており、万葉集で有名な紅葉の短歌は、むしろ「黄葉」と記されている中の方にあります。

近代短歌の紅葉の短歌は
紅葉の短歌 アララギ派の近代短歌より 正岡子規,斎藤茂吉他

 

万葉集では「紅葉」より「黄葉」

万葉集には、黄色の葉、「黄葉」と書いて「もみち」または「もみじ」と読ませる長歌と短歌が82首あるといわれています。

それ以外にも、「紅葉」の言葉は用いなくても、葉の色づきなどをあげて、紅葉を詠んだものもあります。

また「もみじ」は、名詞ばかりでなく、動詞「もみづる」としても使われました。

万葉集の紅葉に関する短歌の中で最も有名で、よく知られている短歌をあげます。

 

秋山に落つる黄葉ばしましくはな散り乱れそ妹があたり見む

読み:あきやまに おつるもみちば しましくは なちりみだれそ いもがあたりみん

作者

柿本人麻呂 2-137

歌の意味

秋山に落ち散る黄葉よ、しばらくの間は散り乱れるな。妻の家のあたりを見よう

解説と鑑賞

石見(いわみ)の家から妻に別れて、都へと上るときに、名残を惜しんで妻の家を振り返る作者が、紅葉を擬人化して「散り乱れてくれるな」と呼びかけるという内容です。

「妹があたり」というところに、妻との距離が離れてもなお心が惹かれてやまない様子がうかがえます。

 

 

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも

読み:あきやまの もみちをしげみ まとひぬる いもをもとめむ やまぢしらずも

作者

柿本人麻呂

歌の意味

秋山の紅葉が繁っているので、迷ってしまった妻を探そうにも道がわからないのだ

解説と鑑賞

柿本人麻呂の有名な短歌です。

「柿本人麻呂、妻死(みまか)まりし後、涙血・哀慟(あいどう)して作る歌」との詞書があり、妻を亡くした作者が晩歌として詠んだ作品です。

死んで葬られることを、「秋山に迷い入る」というように比喩として表し、「会えない」ことを「道を知らないから」として、その手立てのなさを訴えています。

4句までが「山道」にかかるように、息長く歌っています。

「知らずも」が作者を主語にする動詞ですが、そこに寄る辺のない思いが込められています。

 

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ

読み:もみじばの ちりゆくなえに たまづさの つかいを みれば あいしひおもおゆ

作者

柿本人麻呂

歌の意味

紅葉がはかなく散ってゆく折りしも、文使いが通うのを見ると、愛しい妻に逢った日のことがあれこれ思い出される。
 

解説と鑑賞

「玉梓の使」の「玉梓(たまづさ)」とは、手紙のこと。

「なへに」というのは、…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。

「なへに」の例

例:
「あしひきの山川(やまがは)の瀬の鳴るなへに弓月(ゆつき)が岳(たけ)に雲立ち渡る 1088

近代にはいると「なへ」ではなく、「なべに」がよく使われます。

「味噌の香を味ふなべにみちのくの大石田なる友しおもほゆ」斎藤茂吉

当時、手紙を梓の木に結びつけて届ける、郵便配達夫のような役割の人がいたと思われます。

そのお使いの姿を見ると、手紙を遣って会おうとした、今は亡くなってしまった妻のことが思われるという内容です。

ここでは上の句の「もみじが散る」というそのイメージが、妻の死を暗示すると共に、大きな役割を果たしています。

 

黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも

読み:もみちばの すぎにしこらと たづさはり あそびしいそを みればかなしも

作者

柿本人麻呂 1796

歌の意味

黄葉が散り過ぎるように逝った妻とかつて手を取り合い遊んだこの黒江の磯は、ただ見るだけで悲しいことよ

解説と鑑賞

「黄葉」の読みは「もみち」。

「子ら」の「ら」は複数ではなく、親愛の意を表す。

この歌の時間制については、西沢一光の詳細な解説があります。たいへんに優れた解釈です。

 

万葉集の紅葉の秀歌

万葉集からは他にも、次のような歌が、秀歌としてあげられます。

あしひきの山の黄葉今夜こよひもか浮かびゆくらむ山川の瀬に 〔巻八・一五八七〕 大伴書持

けさの朝け雁がね聞ききつ春日山もみぢにけらし吾がこころ痛し 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子

ながつきの時雨の雨に沾れとほり春日の山は色づきにけり 〔巻十・二一八〇〕 作者不詳

おほさかを吾が越え来くれば二上にもみぢ葉流る時雨零りつつ 〔巻十・二一八五〕 作者不詳

吾が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野のもみぢ散ちるらし 〔巻十・二一九〇〕 作者不詳

児もち山若かへるでの黄葉まで寝もと吾は思もふ汝は何か思もふ 〔巻十四・三四九四〕 東歌

たかしきのうへかた山は紅の八入の色になりにけるかも 〔巻十五・三七〇三〕 新羅使(大蔵麿)
--(斎藤茂吉の『万葉秀歌』から)

 

 

百人一首の紅葉の和歌

紅葉の短歌で有名なものといえば、なんといっても百人一首に収められたものでしょう。

それと同じ時代の、藤原定家の和歌もよく引用されます。

 見渡せば花も紅葉(もみぢ)もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ

作者と出典

藤原定家 新古今和歌集

意味

あたりを見渡すと桜の花はもちろんだが紅葉の彩りすら目に触れないのだよ。漁師の仮小屋の散らばる浦の秋の夕暮れ

 

解説

この歌はじつは「もみじがない」と歌っており、それとは逆の鄙びた風景を詠うのです。

不在の物を置いて、このコントラスを浮き立たせる手法はぎこうてきでもあり、見事なものとされています。

 

奥山にもみぢふみわけなく鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき

作者と出典

猿丸太夫 百人一首

意味

奥深い山に紅葉を踏みわけて行き、鳴いている鹿の声を聞くときの、秋はとくに悲しい

解説

秋の風物である鹿の声、そこから触発された作者の悲しみをストレートに歌います。

 

ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは

作者と出典

在原業平 百人一首

意味

神の時代にも聞いたことがない。竜田川の水を紅葉が紅色にくくり染めにするとは

注釈:

  • 2句切れ。下二句は倒置
  • 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞
  • 「からくれない=唐紅」 韓から伝わった紅であざやかな紅色

解説

在原業平はこの時代の有名な歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人です。

下の句の「から」「くれ」「くくる」の連続のカ行とラ行が小気味よい調子を作り出しています。

 

小倉山峰のもみち葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ

作者と出典

藤原忠平 百人一首

意味

山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい

 

解説

「みゆき」「行幸」とは、上皇、法皇、女院のおでましのこと。

この歌は、宇多法皇(うだほうおう)が大堰川(おおいがわ)にお出ましになった時に、「醍醐天皇(だいごてんのう)のお出ましがあってもよさそうな所だ(それほど紅葉がすばらしい)」といったのを受けて、貞信公(ていしんこう・藤原忠平)が、「法皇がこのようにおっしゃいましたと、醍醐天皇に申しあげましょう」と詠んだ歌という詞書があります。

「待つなむ」は、「待っていていてほしい」の願望を表します。

終わりに

紅葉の古典の短歌はいかがでしたか。

秋に色づく葉というのは、古くからこれほどまでに愛されてきたのですね。

皆さんも現代の言葉で、紅葉を歌に詠んでみてくださいね。




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