ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平  

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ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平

2020年6月1日

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ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは  在原業平朝臣の百人一首と古今集収録の名歌。

在原業平は、稀代の美男子であり、歌の名人と呼ばれて三十六歌仙にも選ばれた歌人です。

この歌の現代語訳と句切れ、文法や語の意味を含めて、解説・鑑賞します。

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読み:ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは

「ちはやぶる」の作者

在原業平,肖像画

静神社にある在原業平の絵

この歌の作者は、在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)です。

在原業平(825〜880)は、容貌、姿かたちが美しい、つまり、大変な美男子だったことが、古い記録である「日本三大実録」に記されていることで有名です。

漢文は得意でなかったようですが、和歌はたいへん有名で六歌仙の一人に挙げられています。

 六歌仙とは 現代語訳付き解説

出典

・百人一首 17
・「古今集」294
・伊勢物語106段

在原業平については
在原業平の代表作和歌5首 作風と特徴

 

ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 現代語訳

この歌の現代語訳は

不思議なことが多かった神代にも聞いたことがない。龍田川が水を美しい紅色にくくり染めにするなんて

 

ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 表現技法

この歌の表現技法について解説します。

句切れ

2句切れ

「ず」は打消しの助動詞

枕詞

・ちはやぶる・・・「神」を引き出す枕詞

※枕詞については
枕詞とは 主要20の意味と和歌の用例

擬人法

竜田川が主語で、その川が水をくくり染めにする という意味の擬人法が用いられています。

語句と文法

・神代(かみよ)・・・神々が収めていた時代のこと。不思議なことが度々起きたとされる

・龍田川・・・現代の楢健の龍田神社の脇を流れる川。もみじの名所として知られる

・からくれない・・・「から」は「唐」。
中国や大陸の国々のものにつく言葉で、この時代には物の尊称や美称に使われた。ここでは美しい赤い色のことを指す。

 

 

ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとはの意味

在原業平朝臣の才気が光る歌。

水の上を真っ赤なもみじが流れるという、華麗で耽美的な様子は、百人一首の藤原定家の好みにも合うもので、百人一首にも選ばれています。

屏風に書かれた龍田川

古今集のこの歌の一首前にある素性法師の歌の詞書には、「屏風に書かれた龍田川の空の風景を見ながら詠んだ」との詞書があります。

勅撰和歌集の歌は、前の歌に準ずる規則があり、この歌も屏風絵を詠んだものと考えられています。

素性法師の歌は、

もみぢ葉の流れてとまる水門には紅深き浪や立つらむ

というものです。

屏風の絵は、歌から想像するに竜田川に紅葉が散って、川いっぱいに散り敷いている、そのような情景であると思われます。

このような歌は屏風の絵の理解を助けるために添えられたものであり、「屏風歌」と呼ばれます。

和歌の背景

在原業平はこの屏風絵の歌を、二条后である藤原高子の御所で詠んだとされています。

二条后が絹や紙に絵を描いた屏風を作成させ、その絵にちなんだ歌を歌人たちに詠ませたので、在原業平も加わってその絵柄をテーマにこの歌を詠んだのでしょう。

なお、この高子は、業平の以前の恋人と言われる女性です。

「くくり染め」とは

くくり染めというのは、しぼり染めの一種であったようで、ここでは、紅葉が水面に美しい模様を作り出している。

さらに、竜田川がそのような技を行っているということで、それが「神代にもない、いかにも不思議なことだ」というのが一種の意味です。

藤原定家は「くぐる」と解釈

ただし、藤原定家はこの「くくる」を水の下をくぐるの方の意味にとらえたということです。

もみじの下をさらに水が流れていくという、その重層性に魅力を感じたようなのですが、作者にしてみれば「くくり染め」の「くくる」の方が正しいかもしれrません。

この歌の優れた部分

この歌の優れた特徴を言うと、見たものを平板に並べるのではなく、「ちはやぶる神代も聞かず」と時を遡行して、「神代」に戻るという仮構から始めています。

「神代」の効果

つまり、そのようなものを見たことも聞いたこともない、不思議であるということを強調しているのです。

また、現在の他に「神代」という現代とは別の時点を歌に入れることで、歌の時間性に大きな深みが出ます。

2句切れと歌の調べ

上の句は「聞かず」でここで切れますが、その下の三句「龍田川」もこの一語のみで、さらにいったん切れる印象があります。

この龍田川には、実際は主格の格助詞「は」(または「の」)が省略されており、実際には切れ目ではありません。

しかし、ここに切れ目を入れて詠むことで、「ちはやぶる神代も聞かず」と「からくれなゐに水くくるとは」に挟まれて、一語だけあるかのように配置された「龍田川」の印象が強くなると思われます。

擬人法の壮大さ

さらに、この龍田川は、「龍田川が(もみじを使って)川にくくり染めをしているとは」として、龍田川が主語となる擬人法が用いられています。

人のする染めを川がしているというところが壮大です。

初句の「ちはやぶる神代も聞かず」をはじめ全体が風雅で流麗でありながら神話的です。

川の流れに重ねるかのように時の流れを大きく切り取って、その中心に竜田川を添えるという構図の工夫が凝らされた歌といえるでしょう。

作者の心情

この歌に込められた作者の心情はというと、本人の心情を推し量って言えば、絵ということはひとまず置いておいて、次のように考えられます。

川を流れる紅葉があまりに美しい。このような眺めは、神代から歴史が始まって以来、誰も見たことがないと思われるほどの美しさだ。龍田川が単に川ではなくて、あたかも自ら染色の技巧を駆使したかのように、くくり染めにしたようなものだ、そんな不思議なことがあるなんて

最後の「水くくるとは」の「とは」は「!」とか「・・・」というような詠嘆です。

つまり、作者の思いは、紅葉の流れる美しさに心から感動を覚えたというところにあります。

この歌の感想

私自身のこの歌を読んだ感想を記します。

元々、屏風の景色というのは川に紅葉が流れるというもので、それほど変わったものではなく、同じ絵を詠んだとされる素性法師の一首前の歌、「もみぢ葉の流れてとまる水門には紅深き浪や立つらむ」の方を見ても、波に流された紅葉がとどまっているというものです。

これと比べてみると業平の歌は、ここまでかと思わせられるほど、発想が壮大で感じ方が激烈ともいえるほどです。

紅葉が流れる情景が美しいということを、「当代はじめてだ。昔からこんな眺めは見たこともない」というのですから、大変な誇張、デフォルメがなされているともいえます。

演技的と思われるほど振り幅が大きいのも、在原業平の特徴ですが、単に歌の上での技巧というだけでなく、やはり、それだけ人よりも感じ方が繊細であったのかもしれません。

現代でいうのなら、「変わった人かも…」と思わせられるような詠み手で、個性的でもあります。歌だけを読んだら、どんな人かちょっと顔を見て見たくなるような、そんな歌です。

 

在原業平について

在原業平(ありわらのなりひら) 825年~880年

六歌仙・三十六歌仙。古今集に三十首選ばれたものを含め、勅撰入集に八十六首ある。

「伊勢物語」の主人公のモデルと言われ、容姿端麗、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされて伝説化された人物。

在原業平の評価

在原業平は、六歌仙、三十六歌仙のいずれにも選ばれており、歌の名人と呼ばれました。

この歌は成功していますが、当時の評としては「歌はうまいが学はない」と評されたり、紀貫之も古今集序文の仮名序において、歌のうまい6人、つまり六歌仙に業平をあげながらも、「心余りて詞(ことば)足らず」と評しています。

情熱的であるがゆえに言葉が追い付かないという意味でしょう。

在原業平の他の代表作和歌




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