夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも 正岡子規  

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夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも 正岡子規

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夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも

正岡子規の代表作ともいわれる有名な短歌にわかりやすい現代語訳を付けました。

各歌の句切れや表現技法、文法の解説と、鑑賞のポイントを記します。

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夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも

読み:ゆうがおの たなつくらんと おもえども あきまちがてぬ わがいのちかも

作者と出典

正岡子規 『墨汁一滴』 初出新聞「日本」

現代語訳

夕顔をはわせる棚を作ろうかと思ったが 夕顔の実る秋まで待てない私の命かもしれないなあ

句切れと表現技法

句切れなし

文法と語句の解説

・夕顔…ひょうたんとほぼ同じでかんぴょうの原料となる実ができる。夕方になると花が咲く花の季節は夏。実がなるのは秋とされる

・作らんと…旧仮名だと「作らむ」。ここでは新仮名を用いている。未来の助動詞で意思を表す

・思へども…「ども」は接続助詞。逆接の確定条件をあらわす。「思うけれども」の意味

・待ちがてぬ…「 がて」は補助動詞で基本形は「かつ」。「 ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形

・命かも…「かも」は詠嘆の終助詞

解説

正岡子規の『墨汁一滴』に「しひて筆をとりて」と詞書した十首のうちの一首。

初出は明治34年の日本新聞。

いずれの歌も、花や植物の持つ時期に照らして、みずからの命の短さを詠う。

一連の歌は5月4日の新聞掲載で、春に詠まれた。

結核で病臥の正岡子規

正岡子規は結核に罹患、下半身の神経に支障が生じて歩行が困難となっており、ほぼ寝たきりの状態で日々を過ごしていた。

植物をスケッチするのが楽しみであったため、庭には多くの植物が植えられ鑑賞が可能なようになっていた。

「夕顔の棚」の意味

子規の見える窓からは、植物をはわせる棚があり、夕顔であるひょうたんの他、糸瓜などがつるを絡ませていた。

既に糸瓜(へちま)の歌は作られているので、夕顔の花はすでに見ていたのかもしれない。

それを実らせるための棚を作ろう、作ってもらうように頼もうと思ったものの、ふと実のなるのが秋であることに思い至る。

植物の未来と並行して、自分はその実のなる秋まで果たして生きていられまいというのが、結句の意味である。

「秋待ちがてぬ」の意味

「作らん」は未来形で今は、夕顔専用の棚はないので、これから「作ろう」の意味である。

一方、「秋待ちがてぬ」というのは、「秋を待てるだろうか」ではなくて、「待つことができない」の現時点での予測であり断定である。

この歌の意味においては、作者は夕顔の棚を作ることはあきらめたことが予想できる。

 

一連の他には「いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ」の歌もあり、こちらは現在形で会って、「まかしむ」は「させる」の意味の現在形で、「まかせる」はつまり「まかせた」とととっていいだろう。

花はともかく、結実するものの方が時間の流れを感じさせるものである。

草の伸びるのはともかく、小さかった実が大きくなる、ただそれだけのことが、重い病気を抱えた子規にとっては、途方もない時間に思われたのだろう。

自分は少しずつやせ細っていくのに対して、実が少しずつ大きくなることは、子規にとってはもはや自分とはかけ離れた遠いことであったのだろう。

なお、夕顔は糸瓜と似た植物で、糸瓜については子規は次の俳句を詠んでおり、これが辞世の句となっている。

一連の歌 10首

この歌を含む一連は、いずれも短い命の作者が春を惜しむ気持ちにあふれている。

佐保神の別れかなしも来ん春にふたたび逢はんわれならなくに

いちはつの花咲き出でて我が目には今年ばかりの春暮れんとす

病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花の見れば悲しも

世の中は常なきものと我が愛づる山吹の花散りにけるかも

別れゆく春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも

夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも

くれなゐの薔薇ふふみ我が病いやまさるべき時のしるしに

薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし昔思はゆ

若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり

いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を撒かしむ

 

正岡子規の短歌代表作はこちらの記事に

正岡子規の短歌代表作10首 写生を提唱




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