五月雨の降り残してや光堂
作者松尾芭蕉の教科書掲載の「おくのほそ道」の代表作俳句の現代語訳と意味の解説、鑑賞を記します。
五月雨の降り残してや光堂 解説
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読み:さみだれの ふりのこしてや ひかりどう
作者と出典
松尾芭蕉 「おくのほそ道」
この俳句の現代語訳
長い年月を毎年降り続く五月雨もさすがにこの光堂だけは降り残したからであろうか。
光堂は今も燦然たる輝きを放っていることだ
句切れ
句切れは2句切れ
切れ字
切れ字「や」
表現技法
・体言止め
・「降る」は「経る」の掛詞
・擬人法
季語
- 季語は「五月雨」
- 夏の季語
「五月」でも夏の季語となるところに注意
形式
有季定型
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解説
松尾芭蕉『おくのほそ道』の代表作俳句のひとつ。
芭蕉は3月27日(陽暦5月16日)の早朝、門人曽良(そら)をと共に、奥羽加越の歌枕をたずねる旅に出た。
1989年に芭蕉は奥州藤原氏が栄華を誇った平泉の地を訪れている。
俳句が詠まれた場所
「光堂」とは岩手県平泉町の中尊寺金色堂のことで、「堂を金箔(きんぱく)などで装飾したり、金色に塗った本尊をまつったりしてある阿彌陀堂」をいう。
句の主題
中尊寺金色堂、別名光堂のまばゆい姿への感動と合わせて、500年の歴史への感慨を表した
松尾芭蕉が光堂を訪ねた時期
光堂に着いたのは岩手県一関に泊まった後のことで、5月13日(新暦6月29日)とされている。
弟子の曽良の旅日記によると
十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リに近シ(伊沢八幡壱リ余奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。―出典:『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)「曾良旅日記」
「おくの細道」の「光堂」の記載
芭蕉自身の「おくの細道」のこの句の記載は以下の通り
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
―出典:『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)「曾良旅日記」
下線の部分の訳は
「光堂」部分現代語訳
光堂を飾っていた宝は失われて、珠宝で飾られた扉は風雨でいたみ、金の柱は霜、雪によって朽ち果て、もう少しで廃墟と化してしまうはずだったところを、外周として四方を新たに囲い、上にも新しく屋根を覆って、瓦で覆ったため雨風をしのいだ。
として光堂の様子が記録されています。
これが「鞘堂(さやどう)」と呼ばれる作りのことです。
鞘堂とは 建物を風雨などから保護するため、外側から覆うように建てた建築物のことで、そのため、中にあったものが長い年月にも関わらず守られてきたのです。
松尾芭蕉は、その様子をつぶさに上のように表しています。
俳句の表現
光堂が守られたのは、上のような建築によるものですが、芭蕉は季節感のある「五月雨や」を初句に配置。
雨風をしのいだことを、五月雨を主語として「降り残した」と表現しています。
あたかも美しく価値のあるものだったので、雨もそうして守ったかのような味わいが生まれています。
光堂の様子
俳句が詠まれた中尊寺の場所
〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
松尾芭蕉の像
中尊寺に建てられた松尾芭蕉の像
中尊寺は松尾芭蕉の像が建てられています。
松尾芭蕉の他の俳句
野ざらしを心に風のしむ身哉
古池や蛙飛びこむ水の音
五月雨をあつめて早し最上川
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
松尾芭蕉について
松尾 芭蕉まつお ばしょう1644年 - 1694年
江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。