死にたくはないかと言へばこれ見よと咽喉の痍を見せし女かな 石川啄木  

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死にたくはないかと言へばこれ見よと咽喉の痍を見せし女かな 石川啄木

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死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉の痍を見せし女かな

石川啄木『一握の砂』の短歌代表作品にわかりやすい現代語訳をつけました。

歌の中の語や文法、句切れや表現技法と共に、歌の解釈・解説を一首ずつ記します。

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死にたくはないかと言へばこれ見よと咽喉の痍を見せし女かな

読み:しにたくは ないかといえば これみよと のんどのきずを みせしおんなかな

現代語訳と意味

死にたくはないかと尋ねると、「これを見てください」と喉にある傷を見せた女よ

句切れ

・句切れなし

語句と表現技法

・死にたくはないか・・・口語的な表現 参考:「なきか」

・いえば・・・「ば」は順接確定
「言ったので」「言うと」の意味

・これ見よ・・・「これ」は喉の傷を指す代名詞

・「見よ」は命令

・咽喉・・・読み「のんど」他に「のみど」もある

・かな・・・詠嘆の終助詞

解説と鑑賞

石川啄木の第一歌集『一握の砂』の「忘れがたき人々」にある印象的な一首。

石川啄木の北海道赴任

当時啄木は、渡った北海道で釧路新聞社に勤めており、「紅筆便り」と題する花柳界の御失費記事を執筆。

その際に出会った芸者小奴との出来事を詠んだもの。

啄木が釧路に滞在した3カ月余りの交際であった。

歌の状況は下のように福本邦雄が記載している。

ある夜、良いを覚まそうと「鶤寅」を出た二人は、肩を寄せ合いながらいつも逢引の時に落ち合う海辺をさまよい歩いた。(中略)お互いのこれまでの不遇や鬱憤を語り合っているうちに感情が高ぶってきて、啄木が小奴を引き寄せながら、いっそこのまま心中しようかと迫る。

啄木が言った「死にたくはないか」というのは、つまり、心中をしようと持ち掛けたことであったらしい。

それに対して、小奴は傷を見せるという形で応答した。

この歌だけでは小奴が啄木の誘いを肯定したのか、拒否したのかがわかりにくい。

また、歌を見るとどう見ても小奴の方が、啄木以上に死にたがっていたようにも見えるのだが、事実はそうではなかった。

福本の記載の続きは

「どうかそう思い詰めないで。私もこれまでに生き死にの境をくぐってきたの。これを見てちょうだい」

と喉の傷跡を見せ何とかして啄木の激情をしずめようとした。この時の小奴の必死でいじらしい真心が啄木をしびれさせた。この一瞬の二人の気持ちの高揚が冒頭の一種となって結実したのである。

となっている。

それでは喉の傷が、小奴が本当に自殺を図ったための後だったのかというと、小奴は後にインタビューでこう語ったという。

あの時はとっさに芝居じみた所作をして、石川さん緒気を静めようとしたのです。実はこの傷は幼年の時に喉にできた腫れものを切開した時のものだったのです。

小奴のこの機転によって、歌ができたできないよりもまず石川啄木は心中の気をそらされたといっていいだろう。

北海道の地、釧路での小奴との交際はロマンを感じさせるものだが、実際には芸者屋に入り浸っていたことで借金がかさみ、啄木は東京に帰ることになる。

小奴との交際

実際の小奴との交際と交情は、「一握の砂」には下のように読まれている

火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき
かよひれにき

啄木はけして、単に仕事のネタを探しに行っただけではないことが上句にて伝わるようだ。

しかし、歌を見る限り「酔って」いるという歌が多いので、憂さ晴らしであったのだろう。

さらに、芸者は一人だけではなかったと思うが、啄木はこう詠む。

ひてわがうつむく時も
水ほしとひらく時も
呼びし名なりけり

歌を詠むために北海道時代を回想しながら、当時に連呼したという「小奴」との名前がよみがえってくるのだろう。

きしきしと寒さに踏めば
かへりの廊下の
不意のくちづけ

それでは、小奴のことを一緒に死にたいと言ったのは愛情のためだったのかというと、やはりそうではない。

そのしつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり

おそらく多くの客の相手をしている小奴の方も、啄木の心境は見抜いていたことだろう。

心中をちらつかせても、それはけっして愛情のためではなかった。

ただ「我のことなり」とはいっても、必ずしも自分のことだけではなく、家族のことももちろん含まれていなかったとは言い切れない。

いずれにしても、小奴とはあくまで一時的な交際に過ぎなかったのだろうし、小奴の他にも、交際相手は多かったようだ。

詳しくは
石川啄木と芸妓小奴 北海道時代「忘れがたき人々」の女性

 

北海道時代の他の短歌

君に似し姿を街に見る時のこころ躍りをあはれと思へ

しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき

 

石川啄木とは

いしかわ‐たくぼく【石川啄木】 明治19~45年(1886‐1912)

岩手県生まれの明治末期の浪漫派の歌人、詩人。本名一(はじめ)。

詩集を刊行したほか、小説家を志していたが挫折して、与謝野鉄幹夫妻に師事し「明星」に短歌を投稿。その後、口語体の三行書きによる生活派の歌を詠んだ。明治45年4月13日、貧窮のうちに結核で死去。歌集は「一握の砂」「悲しき玩具」、他に「ローマ字日記」など。




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