夏草や兵どもが夢の跡
作者松尾芭蕉の教科書掲載の「おくのほそ道」の代表作俳句の現代語訳と意味の解説、鑑賞を記します。
夏草や兵どもが夢の跡 解説
スポンサーリンク
読み:なつくさや つわものどもが ゆめのあと
作者と出典
松尾芭蕉 「おくのほそ道」
この俳句の現代語訳
夏草が広がっているなあ 栄華を誇った藤原氏の兵たちが戦った痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が生い茂るばかりだ
句切れと切れ字
・切れ字「や」
・句切れは初句切れ
・体言止め
季語
季語は「夏草」 夏に生い茂る草のこと
夏の季語
形式
有季定型
関連記事:
閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉作の意味と現代語訳
解説
松尾芭蕉の代表作俳句のひとつ。『おくのほそ道』の絶唱といわれている。
中国の詩人である杜甫の漢詩「国破(やぶ)れて山河(さんが)あり、城(しろ)春(はる)にして草(くさ)青(あお)みたり」が前に置かれているため、この詩の想念と共通するところが、杜甫に並べて句に詠まれた。
松尾芭蕉の俳句以来、「兵どもが夢の跡」の部分は成語として独立して用いられるようになっている。
句の主題
あれほど栄えたものが衰え、その時代を精いっぱい生きた人も亡くなり、時の移り変わりと、物事のはかなさが句の主題といえる。
「おくのほそ道」に句が詠まれた経緯
芭蕉は3月27日(陽暦5月16日)の早朝、門人曽良(そら)をと共に、奥羽加越の歌枕をたずねる旅に出た。
1989年に芭蕉は奥州藤原氏が栄華を誇った平泉の地を訪れ、衣川館(ころもがわのたて)にたどり着いてこの句を詠んだ。
衣川館は1189年に源義経を守って家臣たちが最後まで戦い、討ち死にして果てた場所である。
芭蕉はそこの石に腰を下ろして「時のうつるまで泪を落し」たと記している。
俳句が詠まれた場所
この句が詠まれたのは平泉の高館。
そこから広がる景色を見渡して、夏草が風に揺れ光る様子を元に詠まれた。
この句の詞書
三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡(あと)は一里(いちり)こなたにあり。
秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野(でんや)になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形(かたち)を残(のこ)す。
まず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川(きたかみがわ)南部(なんぶ)より流(なが)るる大河(たいが)なり。
衣川(ころもがわ)は、和泉が城(いずみがじょう)をめぐりて、高館(たかだち)の下(もと)にて大河(たいが)に落(お)ち入(い)る。
泰衡(やすひら)らが旧跡(きゅうせき)は、衣が関(ころもがせき)を隔(へだ)てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅(かた)め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣(ぎしん)すぐつてこの城(じょう)にこもり、功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。
国破(やぶ)れて山河(さんが)あり、城(しろ)春(はる)にして草(くさ)青(あお)みたりと、笠(かさ)打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落(お)としはべりぬ。―「おくのほそ道」より
詞書の現代語訳
三代の栄華も一瞬の夢の中、大門の跡は一里手前にある。
秀衡の館の跡は田や野原になって、金鶏山だけが昔の形をとどめている。
まず高館にのぼると、北上川は南部地方から流れてくる大河である。
衣川は和泉が城を巡って流れ、高館の下で大河に流れ込んでいる。
泰衡たちの旧跡は、衣が関を間にはさんで南部地方からの入り口を固めて、夷を防いだものと思われる。
それにしても、忠実な家臣を選んでこの城に立てこもたが、功名も一時のもので草むらとなっている。
「国は荒廃しても山河は残り、城も春になれば草が生い茂っている」と思い出しながら、笠を敷いて、時が過ぎるまで涙を流した。
俳句が詠まれた場所
松尾芭蕉の像
中尊寺に建てられた松尾芭蕉の像
松尾芭蕉の他の俳句
野ざらしを心に風のしむ身哉
古池や蛙飛びこむ水の音
五月雨をあつめて早し最上川
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
松尾芭蕉について
松尾 芭蕉まつお ばしょう1644年 - 1694年
江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。