「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」
藤原道長の満月を詠んだこの有名な和歌は、今から千年前に詠まれたものですが、藤原氏の栄華を表す歌として今も語り継がれています。
月を詠んだ有名な藤原道長の和歌について、藤原氏の百人一首の和歌と合わせてご紹介します。
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藤原道長の有名な望月の短歌
平安時代の貴族、藤原道長(966~1027)が詠んだ「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」という短歌は、とてもよく知られていますね。
「望月」というのは、満月のこと。
それが自分の望みに欠けたところがないということと重ねてあらわしたものです。
藤原一族の栄華を極めた心境が推し量れる一首ということで、短歌としてというよりも、そのような歴史の証としてよく取り上げられて人々に記憶されています。
この短歌の内容について詳しく解説します。
※他の大河ドラマ関連の歌は
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも 源実朝
今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは 二位尼・平時子
※藤原道長の和歌一覧
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
読み:このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば
作者
藤原道長 966年~1028年
出典は「小右記(しょうゆうき)」 著者は藤原実資 ふじわらのさねすけ)
意味
この世は私のためにある世界だと思う。この満月のように欠けたところは何一つなく、すべて自分の意のままに満足すべきものである
句切れと表現技法解説
- 歌の句切れは3句切れ、倒置の構成
- 「をば」は、格助詞「を」に係助詞「は」の濁音「ば」が付いた連語で「この世」を強調する働き
- 「ぞ」は係助詞で「わが世」を強調
- 「思へば」は順接確定条件という。意味は「思うので」
百人一首との関連
この歌は百人一首には入集していませんで、百人一首を編纂したのは別な藤原氏の藤原定家です。
藤原定家は藤原道長の5代目の子孫にあたります。
ちなみに定家の百人一首の短歌はこちらの歌です。
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百人一首の代表歌は
百人一首の有名な代表作和歌20首!藤原定家選の小倉百人一首について
「この世をば」の成立
この和歌は面白いことに、和歌集などに優れた歌として記録されていたものではないのです。
しかも、道長自身が記録していたのでもなく、藤原実資(ふじわら の さねすけ)という藤原氏の一人が自分の日記『小右記(しょうゆうき』に書き残しており、それが今の世にまで伝わったのです。
出典は『小右記』
『小右記(しょうゆうき』は平安中期 978〜1032年にわたって書かれた日記本で、別名『野府記 (やふき) 』とも呼ばれます。
タイトルの由来は実資が「小野宮右大臣」であったところからでしょう。
全部で 61巻もあるという膨大なもので個人の日記としてより、藤原道長の全盛期の政治・社会を知るうえで最も重要な史料となっています。
藤原道長が祝宴で詠んだ
その『小右記』の中にはこの歌が、寛仁2(1018)年10月16日の夜の祝宴で詠まれたということが、きちんと記されているのです。
和歌成立の背景
その際のエピソードとは、次のようなものです。
後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を女御として入内させました。
女御(にょうご)というのは、いわゆる正妻ではない立場であったわけですが、それが10月には中宮、つまり天皇の妻となったのです。
おめでたいことなので、藤原一族の祝宴が開かれました。
藤原道長が和歌を朗詠
その場で道長が自ら即興でこの歌を詠み、実資に向かってこの歌を投げかけたといいます。
そのような際は実資がその場で返歌を詠むというのが習わしでしたが、実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案。
祝宴に出席をしていた公卿一同が、この歌を繰り返し何度も詠ったとされています。
道長自身も自分の日記を書いていたようですが、この歌自体は書き留められていません。
おそらく、和歌そのものが上手に詠めたかどうかよりも、自身の権力が増大したということの方が大切であり、和歌そのものには、さほど関心がなかったのかもしれません。
千年前も望月だった
この歌が詠まれたのが、千年前の11月23日ということなのですが、調べてみると、明石市立天文科学館の井上毅(たけし)館長がいうに、この日は確かに満月であったとのこと。(出典:「この世をば…道長が詠んだ満月、1千年後の今宵も夜空に」朝日新聞)
旧暦10月16日は、今年の11月23日ということなので、それが今日のこの日に当たるのですね。
きっかり1千年の時をへだてて、満月を詠んだ道長のことが、月を介してまた人々の胸に思い出されるのです。
和歌を見ると本当にこのような古い時代にも生きている人がいて、また、詩歌を楽しむということを知っていたということが不思議に思われます。
短歌は彼らが本当に生きていたということの証でもあるのですね。
そして、そんなにも長い間、月は変わらずその満ち欠けの姿を私たちに示し続けてもいるのです。
昔の人はなぜこのような自然のものを歌に詠んだのでしょうか。
道長は千年の時を経て、満月が私たちに彼の歌を思い出させていることを考えてみたことがあったのでしょうか。
短歌と月と昔の人と今の世の私たち--この不思議なめぐりあわせを浮かび上がらせるかのように、今夜も月が照っています。
藤原道長について
藤原道長(ふじわらのみちなが) 966~1028年
平安中期の公卿。兼家の五男。娘を次々と后に立てるなどして外戚となり、内覧・摂政・太政大臣を歴任。政治で権勢を振るい、栄華をきわめた。
晩年は出家して法成寺を造営した。関白になった事実はないが御堂関白(みどうかんぱく)と称されている。日記「御堂関白記」がある。