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森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし/寺山修司解説と鑑賞

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「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」寺山修司の有名な短歌代表作品の訳と句切れ、文法や表現技法などについて解説、鑑賞します。

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森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし

読み:もりかけてきてほてりたる わがほおを うずめんとするに あじさいくらし

作者と出典

寺山修司 「空には本」

現代語訳

森をかけてきてほてって熱くなった頬を埋めようとすると、あじさいの花の色は暗い

語と文法

・「森駆けてきて」…森の中を駆けてきて、の意味だが、若干口語的な印象

・ほてりたる…ほてる+たり 存続の助動詞
「たり」は完了と存続を表す助動詞 ここでは「ほてっている」の存続

・うずめんとするに…「うずめる」の未来形
「とする」をつけて、「うずめようとする」の意味

「するに」の「に」は、 接続助詞「のに」の一部で逆接をあらわす

・紫陽花くらし…「くらし」は暗いの意味
紫陽花と「くらし」の間には主格の「は」または「の」が省略されている

句切れと表現技法

・この歌に句切れはないので「句切れなし」

・「森駆けてきてわが頬を」の字数は。5文字と7文字に分けて「森駆けて・きてわが頬を」となるので、句またがり

 

一首の解説

寺山修司の初期作品。

森を走ってきてというのは、少年らしい行為ですが、「紫陽花の花に顔を埋める」というのは、官能性を感じさせる表現です。

青春の多感な衝動を「駆ける」と表現し、花に顔を埋めようとするとするのも、高ぶった心を沈めようとするメタファーだと思われます。

「うずめんとするに」の逆説

しかし、「うずめんとするに」となっていますから、作者はここで顔を実際に花に埋めたのかというとそうではないようです。

紫陽花は日陰を好む植物ですので、大体木陰に咲いています。

そこまでは、明るい日向を走って来ており、明るい花、きれいな花に顔を埋めようとそこまでは近づいてくるわけです。

明と暗のコントラスト

ところが、森の暗がりのあじさいを見てみると、紫陽花の花の色が思いのほか暗いことに気がつく。

それと共に、元気いっぱい走ってきた作者の天真爛漫な内面にもさっと陰りがさしたかのようになり、作者は紫陽花の花に顔をうずめることを躊躇する。

そのために走って来たともいえるのに、ほてりを冷ますべく、顔をうずめるはずだった花に触れ得ない。

反転する心情

少年期の多感な心の明暗、高ぶりと陰りとを、「駆ける」という行為と紫陽花の花の色で表現しています。

紫陽花の花の色を「暗い」と言い切る明暗のコントラストと反転に何かしら不穏で不安なインパクトがあります。

作者の行為も、動から静へ、そこで止まるのです。それまでの行為に「制止」があって、葛藤を残しつつ、何かすっきり終わらない印象です。

作品の深層

花に顔をうずめるという行為には性的なメタファーがあり、性的な目覚めと同時に、内的な衝動へのタブーという意識も作者の深層にあるようにも思われます。

寺山の青春短歌と言われる、明るい明確な内容の歌とは違って、不思議な印象のある作品です。

個人的には、寺山には作り物のようにも見える完成度の高い作品だけではなくて、こういう部分をもっと深めていければよかったかもしれないとも思います。

そのためにやや弱い歌が混じったとしても、寺山自身の心情に即した歌であれば、寺山は途中で歌を止めなかったかもしれません。

作品の中に「死んだ母」を登場させる虚構ではなくて、心境をもっと掘り下げて詠むということを寺山はしなかったし、あるいは、そうしていれば、もっとたくさんの作品を残せたかもしれないとも思います。





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