食べ物の短歌 藤島秀憲,田中拓也他現代短歌より  

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食べ物の短歌 藤島秀憲,田中拓也他現代短歌より

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食べ物と料理の短歌にはどんなものがあるでしょうか。

朝日新聞「うたをよむ」に掲載の短歌を元に、現代短歌より食べ物の歌を集めてみました。

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食べ物の短歌

朝日新聞の朝日歌壇の紙面に「うたをよむ」のコラムがあります。

今日はそこで「食べ物の短歌」が取り上げられました。

「”食”のうた」、コラムの書き手は 歌人の和嶋勝利さんです。

藤島秀憲『ミステリー』より

掲載された短歌は

部屋に着くころには炊けているはずの舞茸ごはん ふたつの茶碗

にんにくの匂う二人となりぬべし坂をのぼれば月へ近づく

藤島秀憲『ミステリー』より。

書き手は、

「舞茸(まいたけ)ごはん」を用意した。この選択がいい。ヘルシーで食感も楽しめる舞茸ごはんを恋人は喜んでくれたはずだ。

と評しています。もちろん、歌の評ではなくて、メニューの評価ですね。

作者は、介護のため勤めを辞め、ご両親はやがてなくなります。

その前に離婚されていたので、ひとり暮らしとなり50歳代になって再婚。

その様子を歌に詠んだ歌集が今回出版された『ミステリー』ですね。

 

部屋に着くころには炊けているはずの舞茸ごはん ふたつの茶碗

最初の歌の一文字を開けての「ふたつの茶碗」には、そのような生活の変化への感慨が込められているのでしょう。

にんにくの匂う二人となりぬべし坂をのぼれば月へ近づく

食べ物の匂いがしてもいいと思えるように親しくなった関係を「にんにく」が暗示しています。

ある意味、気楽になったわけなのですが、作者はそれに「坂をのぼれば月へ近づく」と続けています。

その状態に至福の感覚があるように思われます。

田中拓也『東京(とうけい)』

二人食むカレーライスは何年ぶりだろうか福神漬は赤くて

田中拓也『東京(とうけい)』

お父さんと成人後に会って、久しぶりにカレーライスを食べたところ。

下の句の「福神漬は赤くて」にこれも言いえぬ感慨があります。

評者は

カレーライスとそこに添えられた懐かしい福神漬。それらによって作者の感傷は「何年ぶり」どころか一気に少年時代にまで解き放たれた。

介護の食

口中に白粥一さじ含ませる師走の夜の病室の中

同じ作者。

12月の寒い季節、病人の体調を保たせようと与える、一さじの「白粥」。

白粥というのは、おかずがついていないご飯だけの粥ということです。

切ない食べ物の歌もありますね。

 

食べ物の短歌 現代短歌より

現代短歌の食べ物の歌で思い出すものをメニュー別に並べてみます。

サラダ 俵万智

俵万智の『サラダ記念日』のタイトルになった歌は

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

最初のアイディアでは唐揚げだったそうですが、「サラダ」に清新な若さがありますね。

「砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている」も、何となく作者の気持ちそのままに”気になって”忘れられません。

 

 

カップヌードル 穂村弘

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』より下の歌

ハロー夜。ハロー静かな霜柱。ハローカップヌードルの海老たち

この歌も”食べ物”のある歌として必ず思い出すものの一つです。

カップヌードルは、開発されて以来、食のアイテムとして確立しています。

この場合のカップヌードルは孤独の象徴でもあるのでしょう。

 


松木秀 カップラーメン

カップラーメンといえば、”時間”の要素も含まれる食べ物です。

三分後もう生きてないかもしれぬ私がカップラーメンつくる

こちらのカップラーメンは、まずは「三分間」の時間を表すものとして登場、同時に命をつなぐ食べ物でもあります。

作者はそれと、自分の命とを対比させるのです。

鍋 小島ゆかり

小島ゆかり『憂春』から鍋料理の歌

 

歳晩の鍋を囲みて男らは雄弁なれど猫舌である

冬の鍋料理も格好の題材ですね。

この時の鍋料理は何だったのでしょうか。人を雄弁にするのですから、おいしいお鍋であったには違いありません。

菓子パン 木下龍也

木下龍也『つむじ風、ここにあります』から、歌集のタイトルになった歌、

つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっとおしえてくれる

作者の素晴らしいところは、一首の中に飛躍があるというところ、そして、一種の中に含まれている情報量が格段に多いということです。

技法としていえば、「省略」と言われるものになるのですが、普通なら「パンの袋がくるくる回っている」という描写を入れようとなるわけですが、この歌には描写は全くないのです。

それなのに者には、自然とパンの袋が動いていることが、ちょっとの時差をもってわかる。この、読者側が「わかる」というところを把握しているところが、この作者の強みです。

他には「いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する」なども、同じです。

上の歌には「そっと」、下の歌には「ようやく」というのがあり、これらの副詞も、読み手に働きかける大きな役割をもっています。

ある意味では、歌を読む相手に対しての信頼度が高いといえるかもしれません。

歌の「意味」を委ねられた読者の方は、読み手としての”仕事”をちゃんとしてくれるのです。

 

のり弁 斉藤斎藤

斉藤斎藤の、のり弁の歌もインパクトがある作品です。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

残骸になってしまったものから、元は何だったのかがわかるまでの過程ですが、これも「のり弁」だから、なんとなくぴったりくるものですね。

 

ショートケーキ ユキノ進

ケーキについては、ユキノ進さんの

ショートケーキの尖った方を北へ向け「出航だ」って真顔できみは

ケーキを舟に見立てる恋人。

「出航だ」が二人の行方を暗示していますね。

”甘い”歌のような、いえ、ケーキの鋭角が甘くない歌のような、ちょっと不思議な感覚です。

終わりに

食べ物の短歌を思いつくものから挙げてみました。

身近にある題材ですので、注意を向ければたくさんの歌ができそうです。

皆さんも読んでみてくださいね!

他にも果物の短歌は、下の記事に

 




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