寺山修司が歌人となるきっかけとなったのは、「短歌研究」第二回短歌研究新人賞を受賞した際の作品「チェホフ祭」50首です。
「チェホフ祭」の短歌全作品を掲載します。
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寺山修司は第2回「短歌研究」新人賞受賞
寺山修司は18歳で「短歌研究」の第2回目、五十首詠に応募、特選となり、文壇デビューを果たしました。
寺山修司は短歌研究の第一回の中条ふみ子の作品に触発されて、自分も「短歌研究」に応募、当時の編集長であった中井英夫に見出されたものです。
寺山修司「チェホフ祭」50首詠
以下に、応募作と受賞作の49首のみをあげます。
50首のうち1首は不明で理由はわかりませんが、編集者の中井英夫が「コミュニスト」などの特定の語のある歌を省いたためと思われます
「チェホフ祭」と改題
また、寺山修司が応募した際の原題は「父還せ」であったのを、中井英夫はそれを「チェホフ祭」と改めました。
また、掲載された作品のうち、数首には、中井英夫の添削が入った形になっており、後の寺山の作品集『空には本』などにも、この添削後の形で掲載がなされています。
「チェホフ祭」50首寺山修司作
そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット
胸病みて小鳥のごとき恋を欲る理科学生とこの頃したし
草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ
とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を
わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
吊されて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめて読みき
雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌
一つかみほど苜蓿うつる水青年の胸は縦の拭くべし
俘虜の日の歩幅たもちし彼ならむ青麦踏むをしずかにはやく
すこしの血のにじみし壁のアジア地図もわれも揺らる汽車通るたび
チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび
父の遺産のなかに数えむ夕焼はさむざむとどの時よりも見ゆ
胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど
すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を超えて来し郵便夫
桃いれし籠に頬髭おしつけてチェホフの日の電車に揺らる
煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし
うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く
わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり
転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ
やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
蝶追いし上級生の寝室にしばらく立てり陽の匂いして
北へはしる鉄路に立てば胸いづるトロイカもすぐわれを捨てゆく
罐に飼うメダカに日ざしさしながら田舎教師の友は留守なり
すぐ軋む木のわがベッドあおむけに記憶を生かす鰯雲あり
ある日わが貶しめたりし天人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ
うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき
晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ
遠く来て毛皮をふんで目の前の青年よわが胸うちたからん
夾竹桃吹きて校舎に暗さあり饒舌の母のひそかににくむ
誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ
刑務所の消燈時間遠く見て一本の根をぬくき終るなり
製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ
ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに
ぬれやすき頬を火山の霧はしりあこがれ遂げず来し真夏の死
胸にひらく海の花火を見てかえりひとりの鍵を音たてて挿す
わが内の少年かえらざる夜を秋菜煮ており頬をよごして
サ・セ・パリも悲歌にかぞえむ酔いどれの少年と一つのマントのなかに
外套を着れば失うなかにあり豆煮る灯などに照らされて
冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや
墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり
口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに
地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり