ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ 寺山修司  

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ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ 寺山修司

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ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ

寺山修司の短歌の有名な代表作品の現代語訳と解説、鑑賞を記します。

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ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむの解説

読み:ころがりし かんかんぼうを おうごとく ふるさとのみち かけてかえらん

作者と出典

寺山修司 『空には本』初期歌篇

※寺山修司の短歌一覧は

現代語訳

転がったカンカン帽を追うように、故郷の道を走りながら帰ろう

語と文法の解説

・転がりし…「転がる」+過去の助動詞「き」の連体形 (「し」⇔「き」)

・カンカン帽…上部が平らで丸いつばがある帽子

・追うごとく…「ごとく」は 「…のように」 直喩

・ふるさとの道…目的を表す「を」が省略

・帰らん…「ん」は新仮名 旧仮名の「む」 意思を表す助動詞

句切れ

・句切れなし

表現技法

・直喩

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむの鑑賞

寺山修司の「初期歌篇」にある作品。

寺山修司青春歌集  で一連の歌が読める。

カンカン帽とは

カンカン帽は上のような形状の麦わら帽子の一種で、昭和初期に流行した。

寺山には他に麦わら帽子を詠んだ「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり 」が有名。

 

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむの背景

寺山修司の故郷は青森県の弘前市だが、13歳の時には母と別居、青森市の母方の叔父夫婦の家に引き取られていた。

「ふるさと」への憧憬にはそのような背景も考えられる。

また、この歌は10代の初期の作品とされているので東京に行っていたとは考えられないが、東京へのあこがれは強かったようだ。

友のせて東京へゆく汽笛ならむ夕餉の秋刀魚買ひに出づれば

にはその願望が表れている。

寺山修司とふるさと

もう一つ、別な歌、

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

この歌は、石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」を本歌取りしたものだろう。

寺山修司には演出的な歌や作為的な歌も多いが、訛りについては、寺山は実際東京に出てからも青森弁で通したらしいので、ふるさとへの愛着は実際にも強かったのかもしれない。

葉名尻竜一の解説だと、その土地に住んでいる少年が「ふるさと」と表現することはないという。

石川啄木の短歌は大人になってからの回想であって、実際にも啄木は東京に住んでいた。

寺山修司がいつ詠んだ短歌か

また、「ふるさと」が子どものことばではないとしても、

「大人は恥ずかしくてカンカン帽を走って追いかけたりはしない」(出典:コレクション日本人歌人選)

という点にも着目している。

そのため、大人の回想ではなく「少年が大人のそぶりをしながら少年期を顧みる」といった「二重の作為で成立している歌」だとする。

つまり、この歌を寺山が詠んだ年齢はどうも推し量りがたく、作者の年齢は不詳というべきなのである。

寺山修司の短歌の特徴

寺山修司の短歌は経験を詠んでいるように見えて、けっしてそうではない。

寺山の短歌には亡き母や弟が登場するが、寺山の母は寺山の死後にも生きていたし、寺山は一人っ子で弟はいない。

この歌を鑑賞する時もそのようなことを踏まえて詠むのがいいと思われる。

寺山修司の他の帽子の短歌

初期の帽子の歌は他にも

転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ
製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ
墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり

いずれの歌も演出がかなり含まれており、本歌も作られた青春像と言えなくもない。

それも寺山修司の短歌の特徴である。

「かんかん」の擬音

麦わらを固めた頭頂部が叩くと「カンカン」と音がするほど固い帽子であることからカンカン帽となったのがこの帽子の由来である。

実際の帽子よりも、この歌では「カンカン」の音が大きなアクセントとなっているので、この帽子が選ばれたのだろう。

ちなみに斎藤茂吉には「かんかん」の擬音を用いた有名な歌がある。

かんかんと橡の太樹の立てらくを背向(そがひ)にしつつわれぞ歩める

はっきり本歌取りというほどではないが、本歌「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ」と微妙な相関が感じられるところがおもしろい。

 

寺山修司について

寺山 修司(てらやま しゅうじ)1935年生

青森県弘前市生れ。 県立青森高校在学中より俳句、詩に早熟の才能を発揮。 早大教育学部に入学(後に中退)した1954(昭和29)年、「チエホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞。 以後、放送劇、映画作品、さらには評論、写真などマルチに活動。膨大な量の文芸作品を発表した。

 




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