秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ山道知らずも 柿本人麻呂泣血哀慟歌   

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秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ山道知らずも 柿本人麻呂泣血哀慟歌 

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秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ山道知らずも

柿本人麻呂作の万葉集の和歌の代表作品の、現代語訳、句切れや語句、品詞分解を解説、鑑賞します。

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秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ山道知らずも

現代語の読み:あきやまの もみじをしげみ まよいぬる いもをもとめぬ やまじしらずも

作者と出典

柿本人麻呂 万葉集208

現代語訳

秋山の黄葉が茂って道に迷っているのだろう妻を探そうとしても、山道を知らないことだ

語句と文法の解説

  • 黄葉…読みは「もみじ」。紅葉のことを多く万葉集で「黄葉」と記す
  • 繁み…
  • 惑いぬる…惑ふ+完了の助動詞「ぬ」の連用形
  • 求めむ…「む」は意志を表す助動詞「む」
  • 知らずも…打消しの助動詞「ず」 詠嘆の助詞「も」

句切れと修辞について

  • 句切れなし




解説と鑑賞

柿本人麻呂が妻に死なれたときに詠んだ歌。

詞書に「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首 并せて短歌」とある、泣血哀慟歌と呼ばれる一連の歌の反歌の一首目。

「惑いぬる」の主語は妻である妹で、妻が亡くなったことを、黄葉が茂っている山に、その黄葉に惹かれて山に分け入った妻が迷っている」と比喩的に表している。

しかし、その妻がどこにいるのか、探そうにも、その道が「わからない」として、架空の想定において、妻と死に別れた絶望と深い悲しみを表す。

伝聞の妻の死

長歌の内容からは、妻が里にあって、急に亡くなり、人麻呂はその知らせを伝達で受け取った。

そのため、生々しい別れではなかったので、距離感のある上のような表現となったことが推察される。

妻の死の比喩

「秋山に迷う」ということが、亡くなったことであるが、単なる比喩というより、古代人の考え方を反映していることを、斎藤茂吉が解説している。

 

斎藤茂吉の評と解説

死んで葬られることを、秋山に迷い入って隠れた趣に歌っている。こういういい方は、現世の生の連続として遠い処に行く趣にしてある。当時は未だそう信じていたものであっただろうし、そこで哀惜の心も強く付帯していることになる。

この一首は亡妻を悲しむ心が極めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。「求めむ」と言ってもただ訪ねようというよりも、もっと感覚的に人麻呂の身に即したいい方であるだろう。--『万葉秀歌』斎藤茂吉著 より

柿本人麻呂の経歴

柿本人麻呂 (かきのもとのひとまろ)

飛鳥時代の歌人。生没年未詳。7世紀後半、持統天皇・文武天皇の両天皇に仕え、官位は低かったが宮廷詩人として活躍したと考えられる。日並皇子、高市皇子の舎人(とねり)ともいう。

「万葉集」に長歌16,短歌63首のほか「人麻呂歌集に出づ」として約370首の歌があるが、人麻呂作ではないものが含まれているものもある。長歌、短歌いずれにもすぐれた歌人として、紀貫之も古今集の仮名序にも取り上げられている。古来歌聖として仰がれている。

 

柿本人麻呂の代表作

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ

大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも

あしひきの山川の瀬の響るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ

天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも

秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ山道知らずも

衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし

 

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