正岡子規について 近代文学に短歌と俳句の両方に大きな影響  

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正岡子規について 近代文学に短歌と俳句の両方に大きな影響

2022年9月19日

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正岡子規は明治時代に短歌と俳句の革新運動を行いました。

正岡子規について、子規の生涯を振り返りながら短歌や俳句の代表作をまとめてご紹介していきます。

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正岡子規とは

正岡子規は、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉愛媛県松山市の下級武士の家に生まれました。

上京して帝国大学文科大学に入学し最初は新聞記者として勤めましたが、病気で倒れたのが子規のその後の生涯を決めました。

正岡子規の病気

正岡子規の病気と死因は結核の脊椎カリエスというものでした。

病気が進んでからは歩行がかなわず、東京の根岸の家、今の子規庵で、妹の律と母に看護を受けながら仕事を続けていました。

短歌俳句はもちろん、絵や文章はすべて、布団の上で仰臥したままで行われました。後の随筆『病床六尺』の題名のゆえんです。

亡くなったのは34歳の時で最後は多くの弟子たちが交代で子規の家に寝泊まりして看病をして看取りました。

 

正岡子規の結婚と奥さん

正岡子規は生涯結婚はしませんでした。

また恋愛を感じさせるような短歌や俳句もないようです。

家族は父親はなくしていたため、東京の根岸、今の子規庵のあるところで、母と妹の律と同居。

妹の律は一度結婚したものの離縁して正岡家に戻っていたようです。

正岡子規の歌集・句集

正岡子規は生前、歌集や句集を刊行しませんでしたが、「竹の里歌」という歌集がその後編まれました。

句集については、自筆の稿本『寒山落木』全5巻、『俳句稿』全2巻などに2万首が記されたものが、のちに『子規句集』としてまとめられました。

正岡子規の随筆

正岡子規は他に病床でしたためた随筆が多くあり、

正岡子規のしたこと

正岡子規の文学上の大きな業績は、病床に伏してからの7~8年間の間に短歌と俳句の革新を行ったことです。

病床において俳句・短歌の改革運動を成し遂げ、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されるものです。

俳句革新

俳句においては、新聞『日本』と1897年創刊の雑誌『ホトトギス』で俳句を論じると同時に、自らも俳句を制作。

それによって従来の月並や理屈を排することを提案、後進と共に俳句の革新に努めました。

自然を描写する写生の重要性や、与謝蕪村にならったの絵画的で自在な句などを作るなど新しい気風を生み出していったのです。

正岡子規が生涯で詠んだ俳句は『寒山落木』他に2万句が自筆でまとめられています。

また、『ホトトギス』は高浜虚子が実質的に継承、子規の俳句の写生をさらに広めていきました。

短歌革新

俳句の革新より2年後になる1898年には短歌革新のきっかけとなる『歌よみに与ふる書』を発表。

万葉集には共感を示したものの、その後の時代の古今集以降の歌風を否定、その時代の因襲にとらわれる旧派の歌人を攻撃しました。

自らも新しい短歌を模索したのはもちろん、正岡子規に賛同する歌人たちを集めた根岸短歌会で後進と共に研鑽に励みました。

この根岸短歌会は、後に伊藤左千夫らによって作られた『アララギ』の母体となり、長塚節や島木赤彦、斎藤茂吉などの有名な歌人を育てて、近代短歌全体にも大きな貢献をしたのです。

正岡子規の随筆

正岡子規には、他にも随筆『墨汁一滴』(1901)、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』(1902)の随筆があります。

他にも日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(1901~1902)を交えて、これらの文章は子規の歌論と俳句論はもちろん、子規の生活や人となりを伝えるものとして広く読まれているものです。

 

正岡子規の短歌の代表作

ここからは正岡子規の短歌の代表作を示します。

くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

正岡子規,短歌,薔薇

読み:くれないの にしゃくのびたる ばらのめの はりやわらかに はるさめのふる

作者:

正岡子規 「竹の里歌」

現代語訳と意味:

紅色の60センチほど伸びた薔薇の枝、そのまだやわらかい棘に春雨がふりかかっている

※解説ページ
くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

 

 

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

読み:かめにさす ふじのはなぶさ みじかければ たたみのうえに とどかざりけり

藤,花,短歌

作者と出典

正岡子規 「竹乃里歌」「墨汁一滴」

現代語訳

瓶に差した藤の花房が短いので畳の上に届かないでいることだよ

解説

明治34年作。初出は随筆「墨汁一滴」の中の一連7首の中の最初の歌。

※解説ページ
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規

 

あやめ,いちはつ,短歌

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす

読み:いちはつの はなさきいでで わがめには ことしばかりの はるいかんとす

作者と出典

正岡子規 『墨汁一滴』

現代語訳

いちはつの花が咲き出したが、私にとっては見るのが今年だけの春が過ぎようとしている

解説

自らの限りある命をいとおしむ気持ちをいちはつの花に重ねて詠んだもの

いちはつはアヤメ科の多年草で、あやめのことと思われる。

子規の家族や弟子は窓ガラスを通して花が見えるように、庭にさまざまな植物を植えていた。

※解説ページ
いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規

 

真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり

読み:まさごなす かずなきほしの そのなかに われにむかいて ひかるほしあり

現代語訳

細かい砂のような数限りのない星の中に、私に向かって光る星がある

解説

明治34年作 10首中の冒頭の一首。

彼方で自分を見つめてくれている星、自分だけを照らしている星を心の中に描いている。

この歌は芥川龍之介が著作の中に引用したことで知られている。

※解説ページ

真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり/正岡子規の短歌

他にも

松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く 正岡子規

 

正岡子規の俳句代表作

ここからは、正岡子規の俳句の代表作をあげていきます。

柿くえば鐘がなるなり法隆寺

読み:かきくえば かねがなるなり ほうりゅうじ

現代語訳:

門前の茶屋で柿を食べていると鐘がなっている。法隆寺の鐘の音に秋を感じることだ

解説

明治28年作、「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きがあります。

芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並んで俳句の代名詞として知られるほどに有名な俳句となっています。

※解説ページ

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規の俳句

 

鶏頭の十四五本もありぬべし

読み:けいとうの じゅうしごほんも ありぬべし

現代語訳:

鶏頭の花が群れて咲いている。おそらく14、5本ほどあるだろう

ワンポイント解説:

1900年9月作の題詠での作品。

専門家には、評価がひじょうに高い俳句ですが、地味であるためか岩波文庫の「子規句集」にはおさめられていないようです。

※解説ページ
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規の句の意味と背景の解説

 

いくたびも雪の深さを尋ねけり

読み:いくたびも ゆきのふかさを たずねけり

現代語訳:

なんども繰り返し、雪の積もった深さを尋ねたのであったなあ。自分は寝たきりで起きられないので

解説

当時、東京、根岸の自宅で子規は妹と母と同居。妹律(りつ)に主に看病を受けていました。

雪の降る日に雪の気配を感じたものの、寝たきりで動けない子規は律に何度も尋ねていたのでしょう。

雪が見えれば、雪を詠みたい。しかし、見えないので、雪を見たい、そのことそのものを句に詠んだのです。

※解説ページ

「幾たびも雪の深さを尋ねけり」の意味

 

正岡子規辞世の句

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をとゝひのへちまの水も取らざりき

正岡子規が亡くなる前日に詠んだ糸瓜を主題とする上の3つの句は、「絶筆三句」と呼ばれています。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

読み:へちまさいて たんのつまりし ほとけかな

解説

糸瓜とは、茎を切ったところから滴り落ちるわずかな水を薬として採取する目的でした。

おそらく、去痰剤としても用いていたのかもしれません。

しかしその花を目にしながら、呼吸が苦しくなり間に合わない、今にも死にそうだ、そういう意味で詠まれた俳句となります。

 

痰一斗糸瓜の水も間に合はず

読み:たんいっと へちまのみずも まにあわず

解説

糸瓜の茎の先から、時間をおいてぽたぽたと採取できるわずかな水は去痰剤として用いられていました。

しかしそれに比べて、自分の痰の量と苦しみはあまりに大きくとても間に合わせられそうにない。

その対比のために置かれたのが、この「一斗」の数字です。

 

をとゝひのへちまの水も取らざりき

読み:おとといの へちまのみずも とらざりき

解説

この句の意味はそのままだと「一昨日の糸瓜の水も取らなかったなあ」ということになります。

そのままでは難しいのですが、子規はその14時間後に亡くなっています。

おそらく痰に加えて呼吸も困難であったのでしょう。

その数日は高浜虚子他の弟子たちが子規の家に寝泊まりしながら、夜通し子規の看病を交代で受け持っていました。

そのような状態ですから、糸瓜の水を取っているどころではない。

まだ糸瓜の水を頼みにしていた時の方が元気であったのです。

死期の迫ったときのありのままの回想を述べたと言えます。

これらの俳句から、正岡子規の命日は「糸瓜忌」と呼ばれています。

それぞれの俳句の現代語訳と解説は、下の個別の解説ページでご覧ください。

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」の意味 正岡子規の絶筆の俳句

痰一斗糸瓜の水も間に合はず 正岡子規「絶筆三句」の意味

をとゝひのへちまの水も取らざりきの意味と解釈 正岡子規「辞世の句」

正岡子規について

正岡子規は、1867年、9月17日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)出身の明治時代の俳人、歌人。

別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。

明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。その後結核が悪化、28年以降は病床で、俳句誌の「ホトトギス」を創刊して俳句活動を行った。

「歌よみに与ふる書」を発表、「写生」を尊ぶことを主張、短歌革新に乗り出し31年におこした根岸短歌会に力を注いだ。広く影響を与えた。

短歌集「竹乃里歌」,随筆に「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。

正岡子規の子規庵の場所




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