時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ 源実朝の有名な短歌です。
朝日歌壇の「うたをよむ」の欄に「祈りと浄化」と題して、山田富士郎さんが源実朝の和歌をあげていたものです。
源実朝の短歌の現代語訳、句切れや修辞、この和歌の詠まれた場所や時期について、お知らせします。
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源実朝 降り続く雨への祈り
鎌倉時代の3代目の将軍、源実朝が大雨に関する短歌を詠んでいます。
時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ
読み:ときにより すぐればたみの なげきなり はちだいりゅうおう あめやめたまえ
作者と出典
作者:源実朝(みなもとのさねとも)
出典:金槐集
意味と現代語訳:
時によって度が過ぎると、ありがたい雨も民の嘆きの原因となります。八大龍王よ、もうこれ以上雨を降らさないでください。
句切れと修辞
3句切れ
上句は、「民」を主語にして「なり」の終止形で事実を告げ、下句はそれに対して、龍王への訴えを述べるという構成となっている。
語の解説
・「過ぐれば」… 仮定法順接
・「八大龍王」…仏の教えを護る八体の蛇形の善神とされる
・「やめたまへ」…「たまふ」は「〔命令形を用いて〕しなさい。▽人を促す意を表す。」尊敬語でもある。
解説と鑑賞
源実朝20歳の時の作品。
この歌には「建暦元年七月、洪水漫天、土民愁歎せむことを思て、一人奉向本尊、聊致祈念云」との詞書があります。
八大竜王は法華経に出てくる竜の王。雨をつかさどり、雨乞いの祈りの対象です。
その神に向かって、民の嘆きを訴え、祈りをささげるための歌です。
「すぐれば」には、雨はありがたいものであるが、「時により」大雨になると家や田畑が流されて、民の嘆きとなるという意味が込められています。
和歌が詠まれた時期
この歌が詠まれた時期は、川田によると、8月末、9月初のことと考えられる。すなわち、長雨ではなく、せいぜい2日3日の暴雨であったに相違ない」とのこと。
時期としても、台風のことであったかもしれません。
斎藤茂吉の源実朝評
斎藤茂吉の「金塊集研究」には下のように
「嘆きなり」などと3句切れにしたかと思うと、第4句で、「八大龍王」と字音の大きい語を据え、直ちに「雨やめたまへ」と四三の調で止めたあたりは、実に行くところへ行きついている。
源実朝が祈った寺は「壽福寺」
「一人奉向本尊」というのは、実朝が一人本尊に祈願のお参りをしたということなのですが、このお寺とは、鎌倉の壽福寺(寿福寺)と伝えられています。この推測をしたのは川田順です。
「本尊」とは何か、おそらくは壽福寺の釈迦如来であろう。(中略)「八大龍王雨やめたまへ」といったのは、法華経を供養し釈迦に祈祷することによって、間接に龍王を動かしたのである」 川田順著『源実朝』
壽福寺の場所
源実朝の歌人解説
源実朝 みなもとのさねとも
または 鎌倉右大臣 かまくらのうだいじん
源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。源頼朝の子。
将軍でありながら、「天性の歌人」と評されている。藤原定家に師事。定家の歌論書『近代秀歌』は実朝に進献された。
万葉調の歌人としても名だかく、後世、賀茂真淵、正岡子規、斎藤茂吉らによって高く評価されている。歌集は『金槐和歌集』。
源実朝の他の代表作和歌
世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも 百人一首93
大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも 693
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる 608
炎のみ虚空に見てる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし 615
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる 608
くれないの千入(ちしほ)のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける 633