わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして 寺山修司  

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わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして 寺山修司

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わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして

寺山修司の有名な短歌代表作品の訳と句切れ、文法や表現技法について解説、鑑賞します。

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わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして

読み:わがかぬー さみしからずや いくたびも たにんのゆめを かわぎしとして

作者と出典

寺山修司 初期歌篇 「15歳」 「寺山修司青春歌集」より

現代語訳

私のカヌーは、さびしくはないのだろうか、さびしいだろう。川岸として何度もたどり着くのは他人の夢ばかりなのだから

語と文法の解説

言葉と文法の解説です

カヌー

・カヌー…丸木舟 おおむね一人用の小型の船で、川を下るときに使う

さびしからずや

「さびしからずや」は反語

「さびし」の未然形に、 打消しの助動詞「ず」と係助詞「や」がついたもので、「さびしくはないのか…さびしいだろう」の意味になる

表現技法

句切れ他の表現技法は以下の通り

句切れ

2句切れ

「わがカヌー」の後は「の」などの主格の女子が省略されているとみられる

倒置

3句以下は倒置とその部分

擬人法

カヌーが「さびしい」「他人の夢を川岸と」するという部分が擬人法

 

「わがカヌー」一首の解説

一首の解説と鑑賞です。

「わがカヌー」の比喩

「わがカヌー」のカヌーというのは丸木舟のことだが、ここでは特定の船のことではなく、作者自身を離れて客体化した表現。

「さびしからずや」の反語表現で心の底にある、「さびしくはないのかというと、やはりさみしい」という感情を探り出したかのように、自身の心情が扱われる。

このさびしいという理由は、3句以下にさらに比喩によって示され、それが「他人の夢を川岸として」。

具体的に何のことかは明示されていないが、自分の情緒的な内面が、自分自身の固有のものではなく、どこか他者性を帯びているものとしておぼろげに自覚される様子が、「さびしからずや」の問いに現れている。

「さびしからずや」の意味

この反語的表現は「さびしい」と直接に言う、または誰かに訴えるのではなく、のではなく、自制的で婉曲的な「思えば、さびしいのにはちがいない」といったニュアンスとなる。

カヌーやカヤックは、おおむね一人乗りの小型の船であり、「個」を浮き立たせるものとして効果的である。

また一首の構成も、二句切れでいったん切ったのちに、さみしさの理由を続けている。

「して」という止めも余韻を残すものとして秀逸。

高市黒人「棚無し小舟」

どこか、高市黒人(たけちのくろひと)の棚無し小舟の歌を思い起こさせる。

いづくにか船泊すらむ安礼の崎こぎ回み行きし棚無し小舟

この歌の意味は、「安礼の崎のところを漕ぎめぐっていった小さな棚無し小舟はいったいどこに泊まるのだろう」というもの。

いづくにか船泊すらむ安礼の崎こぎ回み行きし棚無し小舟/高市黒人の名歌

「舟」のモチーフの類歌

寺山の初期歌篇には、他に同じ「舟」をモチーフにした歌がある

空駈けるカヌーとなれと削りいし樫の木逞し愛なき我に

海のない帆掛舟ありわが内にわれの不在の銅鑼鳴りつづく

など、愛や主体の不在がうたわれている。

初期歌篇はいずれも寺山らしいモチーフが用いられているが、この後の整った作品に比べると、まだ習作の感がある。

寺山修司プロフィール

寺山 修司(てらやま しゅうじ)1935年生

青森県弘前市生れ。 県立青森高校在学中より俳句、詩に早熟の才能を発揮。 早大教育学部に入学(後に中退)した1954(昭和29)年、「チエホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞。 以後、放送劇、映画作品、さらには評論、写真などマルチに活動。膨大な量の文芸作品を発表した。

 




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