春の野に霞たなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも
万葉集にある大伴家持の有名な代表作短歌こは、それまでの万葉集の他の作品にはない独創性を含むものです。
「春愁三首」「絶唱三首」と呼びならわされる大伴家持の一連の一首目であるこの歌の句切れや語句、大伴家持の特徴と作風について解説します。
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読み:はるののに かすみたなびき うらがなし このゆうかげに うぐいすなくも
作者
大伴家持 万葉集19巻・4290
現代語訳
春の野に霞がたなびいてもの悲しい。この夕方の光の中で鶯が鳴いている
大伴家持の万葉集の短歌
大伴家持『万葉集』の代表作短歌・和歌一覧
大伴家持「春愁三首」とは
大伴家持の代表作品の短歌の一つ。
この歌に始まる第19巻の巻末の3首は、大伴家持の「春愁三首」として、高く評価されている。
「春愁三首」第19巻の巻末の3首
この歌を含む、19巻末の3首「春愁三首」は以下の通り。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも
我がやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕(ゆふべ)かも
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば
現代の観点から見ても、古びない抒情性、細細とした悲哀の情と歌の調べは、大伴家持のこの歌を含む三首において、それまでの万葉集の作品にはなかった独創的なものである。
この歌の特色と作風について下に詳しく解説する。
歌の語句
・霞たなびく・・・部分的にではなく、霞があたり一面にかかっている様子をいう
・うらがなし・・・「うら」とは心、魂のこと。「うら悲し」は心が悲しいという意味。
・夕かげ・・・この場合は光線を指す
句切れ・文法と表現技法
・三句切れ
・文末の「も」は詠嘆の終助詞
・「も」は文末、文節末の種々の語に付き、「…なあ、…ね、…ことよ」などの意味となる
一首の鑑賞
この歌と、この歌を含む「春愁三首」について、各歌人の解説を交えて詳しく取り上げます。
大伴家持「春愁三首」の作歌の時期
作品が少なくなっていた時期のあと、「二十三日、興に依りて作る歌二首」「二十五日に作る歌一首」の一連の歌三首が詠まれた。
この歌は「二十三日、興に依りて作る歌二首」の第一首目に当たる歌。
また、これらの歌は3首を合わせて「春愁三首」と呼ばれることがある。
他に、大伴家持の「絶唱三首」と言いならわされてもいる。
大伴家持「春愁三首」の独自性
万葉集において、大伴家持のこれらの歌には、これまでその独自性が指摘されていた。
大正時代にも、窪田空穂や折口信夫が「近代的」「都会的」と評し、岡野弘彦もこの歌のある種の新しさを述べている。
古さを感じさせない
万葉集に収録されている他の歌は、表そうとしているところが類型的でもあり、モチーフに古さを感じるものがほとんどだが、これらの歌は、現代の作品としてもまったく古さを感じさせないという特徴がある。
その点がまず、万葉集の時代の歌としては独自的であるとされ、現代でもこの歌が好まれる大きな理由の一つだろう。
それまでの万葉集にない「悲哀の情」のモチーフ
また、この歌のモチーフは、岡野弘彦の言う「ほのかな嘆き」ともいうべきものだが、そのような「悲哀の情」も、それまでの万葉集の他の歌にはあまり見られないものであった。
一首の「歌の調べ」について
さらに、斎藤茂吉と岡野弘彦が、「悲哀の情」の新しさと共に、この歌の調べの新しさにも注目している。
斎藤茂吉の評「細みのある歌調」
「悲哀の情」を述べたのは、人麻呂以前の作家にはなかったもので、この深く沁む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった
岡野弘彦の評「調べの新しさ」
言葉で心を表現したこの作品は少しも古びていない。その心の新鮮さ、しらべの新しさは、千三百年後の今もなおそのまま残っています。
「うら悲し」の独自性
この歌のモチーフは「うら悲し」にあるのだが、それまでの万葉集の和歌は、この歌に比べると、もっと線の太い大づかみなものであったといえる。
嘆きの元となるもの、恋愛や死別や別離など、嘆きとの因果関係がはっきりしているものが多く、嘆きとしてもっと直截で、ある意味では単純なものが多かった。
大伴家持のこの歌は、悲哀の情の因となるものの描写よりも、「うら悲し」の微妙な心境と、気分そのものに重点を置いて表そうとしたところに独自性があるといえる。
「うら悲し」と上句と下句の関連
「霞たなびき」は、「うら悲し」と連用形並立法で接続されているため、悲哀の直接の要因ではないが、「うら悲し」はこの「霞たなびき」と「鶯鳴くも」の両方に通底する感情である。
一首の中心が「うら悲し」
さらに「うら悲し」は終止形でここで句切れとなっており、「うぐいす鳴くも」は「うら悲し」には関連せず、かえって、感情的な隔絶による孤独な悲哀を浮き彫りにする。
これらの情景の描写と作者の悲哀の情とは、象徴的な結びつきを見るのみであり、家持の表したいものとはそのような心の表現であった。
心というより気分そのものを表そうとしたのが、この歌のモチーフである。
大伴家持の学びの軌跡
『万葉の歌人と作品』(和泉書院)で鉄野昌弘氏は、この歌の独自性を述べながらも、大伴坂上郎女の「ぬばたまの夜霧の立ちておほほしく照れる月夜(つくよ)の見れば悲しさ(6・982)」をこの歌の先例として挙げており、これらの歌の情感が、家持の歌で醸成され、一首は家持の学びと作歌の試行の上に成り立ったと述べている。
大伴家持「春愁三首」の発見とこれまでの評
大伴家持のこの歌が、高く評価されるようになったのは、大正11年頃からと、時期が限定されてあげられており、折口信夫やアララギ派の島木赤彦他が、万葉集の鑑賞としてこの歌を挙げていることが確認されている。
以下にこの歌のこれまでの各歌人の評価を上げる。
折口信夫の評
折口はこの歌に出会った時の感動を強い調子で下のように述べる
私どもが初めて此歌を見つけたのは、今から30年もっと前のことである。こういう心の微動を表すことが唱導せられだした頃のことだ。
其頃、この歌を見つけたのである。私の驚きを察してもらいたい。今考えてみても、不思議なその時の感じは印象している。(ママ)
それからこれだけ年が経っても、此歌は少しも新鮮さを失ってはいない。--昭和26年「婦人之友」
窪田空穂の評
窪田空穂は
「気分と言葉と縺れ合って、ゆるやかに、甘い悲しみを詠っているところ、千年の後の今日の歌にも似ている(昭和57年『まひる野』)」
「気分に象(かたち)を与えた歌。写生の歌ではない。(春愁三首は)家持の特色の最もよく現れた歌」
と述べている。
発見者は窪田空穂との説
大伴家持にこのような歌があるということを発見したのは、窪田空穂が最初であったという説もある。
万葉集は千年も前からある歌集であるのだが、魅力が見いだされたのが、大正時代になってから、ということになるのは不思議なようだが、万葉集は、古代から必ずしも高く評価されていたわけではなく、大伴家持の魅力は長いこと埋もれていたともいえる。
大伴家持のこの歌は、大正時代になって初めてその歌に接した歌人や研究者たちによって、その魅力を”発見された”歌だということも知っておきたいところである。
また、作歌の保坂和志さんは、この歌について、歌のもたらす独特の感慨を
この歌は作品以前の感慨がそのまま空間に漂う音となっているように感じる。空間か空気か季節か時間か場か、そういう何かと人との接触面、…………叙景が叙情になる、まったく感情を持たずに風景の中に立つことはない、しかしそれは約束されているわけでなく、そのつど起こる。そのつど起こることは、名前を持つ個人から離れることじゃないか。生まれて死ぬ〈生〉と別の相にある。
として、自らのトークイベントにも取り上げておられます。