石川啄木は岩手県出身の明治生まれ、処女歌集『一握の砂』一冊で世に出て、今に至るまで作品が愛唱され続けている歌人です。
わずか27歳で結核のため世を去った石川啄木の生涯を、代表的な短歌の作品を交えてお知らせします。
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石川啄木の生涯
石川啄木は一夜にして詠んだ100首以上の短歌をまとめた歌集『一握の砂』で有名になった歌人です。
しかし、歌人として認められた数年後、石川啄木はわずか26歳で結核のため世を去りました。
啄木はどのような生涯を送ったのでしょうか。
石川啄木の26年の生涯を短歌の作品と共に振り返ります。
岩手県に生まれた石川啄木
石川啄木の故郷の岩手山
石川啄木は、昭和19年に岩手県で生まれました。
本名は一(はじめ)。父石川一禎(いってい)は僧侶、母カツは南部藩士の武士の娘でした。
生家は曹洞宗の寺で、父が僧侶であって妻帯を遠慮、入籍をしなかったため、小学校2年生までは、母方の工藤姓を名乗っていました。
啄木が母を詠んだ
たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
は、啄木の作品の中でももっとも有名なものの一つです。
啄木の故郷 渋民村へ
啄木とその一家が岩手県の渋民村の別な寺に転出したので、渋民村に転居することになります。
啄木が2歳の時で、啄木は幼少期を渋民村で過ごすことになります。
かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川
ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな
参考:渋民村の場所
神童と呼ばれた啄木
啄木は小学校を卒業時は首席の成績で、神童と呼ばれていました。
もっとも小学校時代の栄光は、後には啄木にとってつらいものとなります。
そのかみの神童の名のかなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと
盛岡中学校に入学
盛岡高等小学校入学。
今の盛岡中学校ですが、ここでの思い出を詠んだ歌の数々、啄木の作品でも最もよく知られるものとなっています。
己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚よらしめ
盛岡城の様子
中学校を退学になった啄木
しかし、啄木は学業を次第に怠けるようになり、学期末の試験のカンニングについて処分されて退学となり、卒業できませんでした。
師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因
教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな
成績が落ちた原因は、後に妻となる節子との恋愛のため、または文学への傾斜のためだとも言われていますが、今一つはっきりしていません。
いずれにせよ、啄木はこの頃から、短歌誌「明星」を愛読、短歌を盛んに詠み始めます。
小説で最初の挫折
そして、とうとう、明治35年、17歳の時に「文学で身を立てる」と一人上京をするのですが、しかし、啄木は無理を重ねて体を壊し、18歳で帰京。その後は短歌を詠む傍ら、詩作にも手を染め、処女詩集「あこがれ」を刊行。
19歳で、節子と結婚。しかし、明星派の新進詩人として注目されたため、再び上京。
そのためもあって、節子との結婚式には出席しなかったというハプニングもあったようです。
そしてこの頃、大変大きな出来事として、父一禎が住職を罷免されます。宗費の滞納が原因でした。このことで、啄木と一家は故郷を追われることとなったのです。
石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
そしてこの事件が、啄木の心を一層深く故郷に結び付けることとなりました。
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも
帰りたいが帰れない、そのふるさとが、啄木に強い郷愁を呼び起こしたのです。
北海道に渡った石川啄木
結局父は、寺に戻れず家出。
啄木は、北海道の函館に渡り、妻と妹、母を迎えて、札幌、小樽と道内を移り住みます。
函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の声の荒さよ
わがあとを追ひ来て知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな
芸妓小奴の歌
北海道では収入が高かったこともあり、羽を伸ばした啄木は芸妓小奴の歌も詠んでいます。
小奴(こやつこ)といひし女のやはらかき耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
死にたくはないかと言へばこれ見よと咽喉(のんど)の痍きずを見せし女かな
また、同僚であった女性教師へのほのかな恋愛の相聞の歌もみられます。
いつなりけむ夢にふと聴きてうれしかりしその声もあはれ長く聴かざり
世の中の明るさのみを吸ふごとき黒き瞳の今も目にあり
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「一握の砂」を発行
しかし、北海道での生活も長くは続きませんで、東京での創作生活への憧れを募らせた啄木は、再び上京。
金田一京助の厚意で、本郷区菊坂の赤心館で創作生活を開始するも、ことごとく失敗。
大きな挫折感に打ちひしがれた啄木は、初めて「失敗」を自覚します。
そして啄木の最後に行きついところが、短歌でした。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
頬につたふ涙のごわず一握の砂を示しし人を忘れず
後に歌集のタイトルとなる『一握の砂」を含めて、作者が泣いている歌で歌集は始まります。
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
新聞社の校正係として再び苦しい生活の中で、「一握の砂」を発行。
一躍、第一線歌人としての地位を確立します。啄木が25歳のときでした。
母の死
猫を飼はば、その猫がまた争ひの種となるらむ、かなしきわが家(いへ)
茶まで断ちて、わが平復を祈りたまふ 母の今日また何か怒れる。
その後は、妻と折り合いが悪かった母が死去。
妻も肺尖カタルの診断を受け、啄木も病の床につきます。
亡くなる4,5日前に友人に託した短歌の草稿、それが第二歌集の「悲しき玩具」となって亡くなった啄木の代わりに世に出ました。
啄木の妻節子も翌年、啄木の後を追うかのように亡くなっています。
啄木は、数えで27歳、啄木を支え続けた節子もまた28年の短い生涯でしたが、たった2冊の歌集が、啄木の名を今に伝えることとなったのです。