アララギ派の代表的な歌人 正岡子規 伊藤左千夫 長塚節 斎藤茂吉 島木赤彦 古泉千樫 中村憲吉  

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アララギ派の代表的な歌人 正岡子規 伊藤左千夫 長塚節 斎藤茂吉 島木赤彦 古泉千樫 中村憲吉

2018年5月26日

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アララギ派の代表的な歌人には、正岡子規、伊藤左千夫、長塚節、斎藤茂吉など有名な歌人たちがいます。

歌誌『アララギ』他に参加したアララギを代表する歌人の経歴に代表作品を添えてまとめました。

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アララギ派について

「アララギ」というのは、短歌の会と、その歌誌の名前です。

アララギ派というのは、当時、作風で対極的とされた、与謝野晶子・与謝野鉄幹の「明星」の歌人を明星派と呼んだのに対して、アララギの歌人を呼んだ総称です。

それらの歌人の結成した、歌の団体である短歌結社を「アララギ」、その発行する短歌の冊子も同名の「アララギ」です。

アララギに至るまでの歴史

「アララギ」という名称は、最初から使われていたわけではありません。

会の名前が「アララギ」となって受け継がれる前に、いわゆる「アララギ派」の創始者である正岡子規とその周りに集まった短歌の会は、子規の住んでいた地名を取って「根岸短歌会」と呼ばれました。

正岡子規の亡くなったあとは、弟子であった伊藤左千夫が「馬酔木(あしび」という冊子を創刊しました。

その後、会の名称が「アララギ」となり、歌を詠む会員が増え、優れた作品で有名になった歌人がたくさん生まれたのです。

 

アララギの歌人たち

ここからは、アララギという名前になる前の、「根岸短歌会」以降の、アララギ派の主要な歌人を、明治・大正・昭和初期の順にご紹介していきます。

正岡子規

1867-1902 慶応3年9月17日生まれ。愛媛県出身。帝国大学中退。明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。

28年以降は病床にあり、30年創刊の「ホトトギス」、31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。

明治35年9月19日死去。36歳。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、竹の里人。歌集「竹乃里歌」「歌よみに与ふる書」「病牀六尺」他。

正岡子規の代表作

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり
いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす
くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

 

■正岡子規関連記事

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あら玉の年のはじめの七草を籠(こ)に植えて来し病めるわがため 正岡子規

下ふさのたかし来れりこれの子は蜂屋大柿吾にくれし子  正岡子規

真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり~正岡子規

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規

伊藤左千夫

1864-1913 明治元年8月18日生まれ。千葉県出身。明治法律学校(現明大)中退。

上京して搾乳業を営む。明治33年から正岡子規に師事し、子規没後の36年長塚節らと歌誌「馬酔木)」を創刊。

のち「アララギ」を主宰した。大正2年7月30日死去。50歳。本名は幸次郎。小説代表作に「野菊の墓」。

伊藤左千夫の短歌代表作

牛飼いが歌よむ時に世の中の新(あらた)しき歌大いに起る
人の住む国辺を出でて白波が大地両分け(ふたわけ)しはてに来にけり
天雲の覆へる下の陸(くが)広ろら海広らなる崖に立つ吾れは
おりたちて今朝の寒さを驚きぬしとしとと柿の落葉深く
今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光

■伊藤左千夫の短歌解説記事

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長塚節

明治12年茨城県生まれ。茨城中中退。正岡子規に師事し、子規亡き後の明治36年伊藤左千夫らと「馬酔木」を創刊。41年「アララギ」に参加。万葉調の写生に徹し「うみ苧(お)集」「行く春」などを発表。

36年頃から小説を書き始め43年に名作「土」を発表。44年喉頭結核となり、大正4年死去。

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初期アララギの主要歌人

正岡子規の亡くなった後は「馬酔木」という短歌誌を経て、「アララギ」が創刊されました。

初期アララギの主要歌人は、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉がいます。

初期アララギの特徴

この頃のアララギの特徴を述べた次の文章「アララギの生の本質」を山本健吉が書いています。

たとえば、白秋の「桐の花」「雲母集」と茂吉の『赤光』『あらたま』とを比べても、官能的あるいは宗教的な傾向において、相互浸透のあったことを指摘することができるが、どちらにより根底的な信念の強さが認められるかというと、それは茂吉なのである。その違いは微妙だが、同じ時代の同じ風潮のなかに呼吸しながら、そこにあった微妙な違いが「アララギ」を「アララギ」たらしめたのである。人間の「生」の本質に参入することが深かったといってもよいのだ。そしてそれが、茂吉、赤彦はもちろんのこと、憲吉も千樫も文明も、その絶大な自信のよ(ママ)ってくる所以なのである。 

 

島木赤彦

1876-1926 明治9年12月17日生まれ。長野師範卒。故郷長野県の小学校教員、校長をつとめながら、伊藤左千夫に学ぶ。大正3年上京し、斎藤茂吉らと「アララギ」を編集。

「万葉集」を研究し、作歌信条として写生道と鍛錬道を説いた。大正15年3月27日死去。51歳。本名は久保田俊彦。旧姓は塚原。号は柿の村人など。著作に「歌道小見」歌集に「切火」「氷魚(ひお)」「太虗(たいきょ)集」等。

島木赤彦の短歌代表作品

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ
日の下に妻が立つとき咽喉(のど)長く家のくだかけは鳴きゐたりけり
あからひく光は満てりわたつみの海をくぼめてわが船とほる
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ

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「夕焼け空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖のしずけさ」の改作

島木赤彦の写生論「アララギの背梁」大辻隆弘 

中村憲吉

1889-1934 明治22年1月25日生まれ。広島県出身。東京帝大卒。

42年から伊藤左千夫に師事し「アララギ」に参加。

一時大阪毎日新聞社記者をつとめたほかは、広島県で家業の酒造業に従事。繊細な都会情緒と官能的な雰囲気の歌風を確立したが、その後は次第に、郷里の自然と人生の実相を見つめつつ寂寥感を漂わせた観照的な歌風に転じた。

昭和9年5月5日死去。46歳。歌集に「林泉集」「しがらみ」他。

中村憲吉の短歌代表作品

新芽立つ谷間あさけれ大仏にゆふさりきたる眉間のひかり
身はすでに私(わたくし)ならずとおもひつつ涙おちたりまさに愛(かな)しく
春すぎて若葉静かになりにけり此の静けさの過ぎざらめやも
この家に酒をつくりて年古りぬ寒夜(かんや)は蔵に酒の滴(た)る音
山嶺より湖(うみ)をひろく見て朗らかに大き寂(さみ)しさに入りたまひけむ

■中村憲吉関連記事
中村憲吉の短歌代表作品50首 馬鈴薯の花・林泉集・しがらみ・軽雷集・軽雷集以後

 

古泉千樫

1886-1927 千葉県生まれ。千葉教育会教員講習所卒。本名は幾太郎。

14歳より歌作を始め、明治37(1904)年に『馬酔木』への投稿歌が伊藤左千夫に激賞されて左千夫門に入門した。

41年には小学校教員を辞して上京、帝国水難救済会に職を得る。

アララギ初期には新進中もっとも安定した作風を示し、初期から興隆期の主要同人として編集責任者にもなった。

その歌風は写生を基調とした端整な抒情みが特徴で、心情を豊かに歌ったには、『万葉集』に対する深い理解がその底にあるといえる。

晩年は『日光』に参加、門下と青垣会を結成したが、その機関誌の創刊を見ずに死去。歌集に『川のほとり』(1925)、『屋上の土』(1928)、『青牛集』

 

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斎藤茂吉

1882-1953 明治15年5月14日生まれ。

山形県出身。東京帝大卒。伊藤左千夫に師事し,「アララギ」同人となる。

「実相観入」の写生説をとなえた。歌集に『赤光』『あらたま』「白き山」など。「柿本人麿」で昭和15年学士院賞。26年文化勲章。

昭和28年2月25日死去。70歳。旧姓は守谷。号は童馬山房主人。

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その他のアララギ歌人たち

主に昭和に入って活躍したアララギ派の歌人たちの筆頭には土屋文明がいます。

土屋文明

1890-1990 明治23年9月18日生まれ。群馬県出身。東京帝大卒。

一高在学中に「アララギ」同人となる。大正14年第1歌集「ふゆくさ」を出版。昭和5年斎藤茂吉にかわり「アララギ」の編集発行人。法大・明大教授をつとめた。

平成2年12月8日死去。100歳。

歌集に「山谷(さんこく)集」「山下水(やましたみず)」等。著作に「万葉集私注」。

■土屋文明関連記事

土屋文明の短歌

土田耕平

1895-1940 明治28年6月10日生まれ。長野県出身。東京中学卒。

島木赤彦に師事して「アララギ」に参加。

病気療養後の大正10年から文学活動を再開,歌集「青杉」「斑雪(はだれ)」などを発表。

童話集に「鹿の眼」「原っぱ」など。昭和15年8月12日死去。46歳。

土田耕平関連記事

土田耕平の短歌

 

鹿児島寿像

1898-1982 福岡市生まれ。有岡米次郎に博多人形製作を学ぶ。1932年紙塑人形を創始、1933年日本紙塑藝術研究所を開き、1934年人形美術団体甲戌会を結成する。1936年帝展に入選する。

アララギ派の歌人でもあり、島木赤彦・土屋文明に師事。

1945年短歌雑誌『潮汐』を創刊する。1961年紙塑人形の人間国宝となる。

1968年、『故郷の灯』他で第2回迢空賞受賞。勲三等瑞宝章。

 

鹿児島寿像に関する記事

五味保儀

1901-1982 大正-昭和時代の歌人。

明治34年8月31日生まれ。五味智英(ともひで)の兄。島木赤彦,土屋文明(ぶんめい)に師事。

昭和16年歌集「清峡」を刊行,アララギ派の新進歌人として注目される。

戦後,「アララギ」の編集発行人となり,同誌の再建につとめた。46年歌集「病間(びょうかん)」などにより若山牧水短歌文学大賞。

昭和57年5月27日死去。80歳。長野県出身。京都帝大卒。

五味保儀の短歌

清水房雄

1915-2017 大正4年8月7日生まれ。五味保義に学ぶ。

昭和13年「アララギ」に入り土屋文明の選歌欄に出詠。のち編集委員、選者となる。

39年「一去集」で現代歌人協会賞。52年「春の土」で短歌研究賞。

平成10年「旻天何人吟」で迢空(ちょうくう)賞。16年「独孤意尚吟」で斎藤茂吉短歌文学賞。

20年「已哉微吟」で詩歌文学館賞。哀愁感のただよう身辺詠が多い。千葉県出身。東京文理大卒。本名は渡辺弘一郎。歌集に「散散小吟集」など。

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津田治子

1912-1963 明治45年3月5日生まれ。佐賀県出身。

本名は鶴田ハルコ。ハンセン病をわずらい、熊本の回春病院、菊池恵楓園で療養生活をおくる。

カトリックの洗礼をうけ、昭和13年「アララギ」に入会。土屋文明らの選をうけ、「津田治子歌集」を出版。

昭和38年9月30日死去。51歳。遺歌集に「雪ふる音」。

津田治子の短歌

 




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